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2010年05月12日(水) 

 

井上雄彦「バガボンド」vol.30より

の美しさとは、それが人を良く切ることができるところにある、と研ぎ師本阿弥光悦(劇画「バガボンド」)に作者井上雄彦は語らせる。脚注1人を良く切ることのできる刀を追求していった結果、刀は一種の〝美〟と呼びたくなるものを具現したわけだ。
そう言うことはあるかも知れない。


「用の美」とか「機能美」と言う言葉があるのをご存じだろう。 脚注2道具がその用途によって磨き上げられて行くと、ついに道具でさえ「美」の領域に達すると言うことだろう。ならば刀も「用の美」と言ってよさそうな気もするが、何となく気持ちが落ち着かない。
なぜだろう?

それはきっと、その〝用〟が人を切ることだったからではないだろうか。

 

本刀は日本固有の製造法で作られ、刀身自体に美術的価値を有しているところが諸外国の刀剣と異なるのだそうだ。現代では、刀鍛冶になるためには、刀匠資格を有する刀工の下で4年の修業を終え文化庁主催の作刀実地研修会を終了しなければならない。しかも粗製濫造による質の低下を防止するため年間生産本数の制限もあるらしい。日本刀の鍛造技術は世界的にも大変優秀であるらしく、たしかにその工程数を見ただけでも驚嘆に値する。また鍛刀場のシーンなどは一種霊妙で凛然たる雰囲気があり、刀剣好きでなくとも魅了されるものがある。刀鍛冶は神秘化 されて逸話や伝説となっていたりするほどなのだ。


の中が治まるにつれ、刀剣の研ぎは 地鉄・刃文の美しさを引き出す方向へ発達してきた。良く人を切るには粗砥の方がよいらしいのだが、それでは名刀の良さ=美しさを出せないのだ。用を失った刀は自らのレーゾンレートルを、用途(=人をよく切ること)とは異なる方向に、鑑賞的な美を追究する方向へと大きく転換していったわけだ。


現代では刀は美術刀剣と実用刀剣というカテゴリーに分けられている。美術刀剣とは上記の如く鑑賞という観点からカテゴライズされたものだ。一方、実用刀剣とは試刀術、抜刀術、据え物斬りなどに用いられるもので、実用性=使い勝手という観点に重きを置いているらしい。鑑賞より実用性を重視すると言うことなのだろうが〝実用〟と言っても人を切るわけではないのでご安心あれ。

 

つまり美術刀剣・実用刀剣というカテゴライズは、冒頭で述べた用美一体論とは一見対極の、用を採るか美を採るかの二項対立論と言うことになるのだろう。脚注3〝一見対極〟と言ったのは、この場合一体論・対立論いずれにしても、畢竟用と美の二分法・用と美の二項対立図式の上に立っているように見えるからだ。


落ち着いて考えてみれば分かることだ。用と美は、いつから対立概念になったのだ?

用と美を対立させなければならない理由がどこにある?

用と美が一体でなければならない理由がどこにあるだろう?

もともと「用の美」なんて言葉はつい最近製ではないだろうか。もしかして「用の美」なんて概念自体、誰かのなんらかの必要にもとづく思いつき・捏造・こじつけに過ぎないって言うこともあり得るのだ。後からでっち上げた概念をあたかも昔からあったように思いこむことは良くあることだ。そして無自覚に私たちは新しくスタンダードになった概念を元に対象を理解するだろう。つまり概念が、ひいては言葉が現実を規定しているということのこれも一つの実例だと言うことだ。


は 刀を美しいと感じてしまう。だが、火縄銃やマシンガンだってまったく同じように美しいと感じてしまう。複葉機も ジェット戦闘機も美しいと感じてしまう。投石機もミサイルも美しいと感じてしまうのだ。
見たまえ。石器時代使われていた石の道具だってこ んなに美しい。
機能的には隔絶していても、〝美しい〟という情動に質的差異は全くない。と言うことは「用の美」に合理・合目的的な定向進化という迷信は当てはまらないと言うことにならないだろうか?。

でないと用を失った刀は「〝無用〟の美」あるいは「〝無機能〟の美」と呼ばなくてはならなくなる。

このように〝用〟もしくは〝機能〟と〝美〟に必然的な結びつきはない。

 

石器

 

 れにしても世の中に刀を美しいと思う人がいったいどれほどいるのだろうか?率直な話、刀剣という価値の世界はきわめてマニアックな価値観の閉鎖域に も見える。ウンチク好きのマニアたちが専門用語を使い合って見識を披露しあう。確かに、価値感を共有する文化的な遊びがそこにはある。

それでも大抵の人は「刀なんて怖 い」と感じるだろう。それはごく自然な反応だと思う。にもかかわらず刀剣マニアでもない私などが、刀に不思議な魅力を感じてしまうのだ。
と 言うことはひょっとすると、その〝怖い〟ところに刀が美しいと感じる秘密があるのかも知れない。

刀は今も、決して〝用に叶わない〟のではないし、〝機能しない〟のでもないのだ。


もっぱらその美を鑑賞するものであったとしても、刀はあくまで刀なのだ。刀の〝刀性〟を掩蔽することが刀剣に関する美的態度だという考え方は、人を切る道具である刀が帯びるに至った〝美〟、つまり発生論的な視点からの刀剣の〝美〟をつかみ損なうものであるかも知れない、と感じてしまうのだが。

 

井上雄彦「バガボンド」vol.23より

美しければ人を切って良いと思っていることも事実』と劇画「バガボンド」で研ぎ師本阿弥光悦が言う。人を良く切れる刀を追求していった。その結果、刀は一種の美と呼べるオーラを帯びた。そのような刀は人を切っても良いと光悦は感じているのだ。何故なら刀は「人を切ることができるから美しい」からだ。
光悦のこのセリフには何か読者の心に響くものがある。この言葉には確かに〝美〟と呼ばれる力能に関する何ものかに、ゾッとするほど美しく、心を高める何ものかに触れていると感じさせるものがあるのだ。


世の中には、私たちを魅了するものは確かにある。私たちから言葉を奪い去り、感情のコントロールを不能にしてしまうような。私たちを根こそぎ震撼させ、その前で立ちつくすほかなくさせるような。そのような〝なにか〟は確かにある。そんなものに出会ったとき人は戦慄しおもわず〝美しい!〟と発語してしまうのだろう。
そのような美は決して「文化」などと言う生ぬるいものではないような気がする。R・オットーの言うところの〝ヌミノーゼ 脚注4〟な二面性を持った体験。それが〝美しい!〟なのではないだろうか。

 

は思うのだ。
〝美〟を定義しようとしてはいけない。
〝美〟を対象化してはいけない。
〝美〟を審級してはいけない。
なぜなら〝美〟とは実体なき潜在力だからだ。

それは私たちの身体を通過していく波動だからだ。

それは人が全存在をもって〝感じる〟他ないものだからだ。
人が全存在をもって感じる〝美〟とは全的に、無条件に肯定されているものだからだ。


からと言ってむやみに刀で人を切ってはいけません。善男善女・よい子の皆さんは決してそんな恐ろしいことはしません。その美を持って人を活かすことが刀の精神であるからです。


刀を通じて〝美〟の畏ろしくも美しい息吹にちょっぴりでも触れて見たかったのだが、これより先は実際に刀に、いいえ美に、固定観念のない自由な心でぜひとも触れていただきたい。

 

 

 

 


脚注

  • 1:井上雄彦による青年漫画作品。吉川英治の小説『宮本武蔵』が原作。キャラクターや物語には井上独自の脚色が加えられていて、佐々木小次郎は聾の剣士として描かれていたり、京都の居酒屋のオヤジが江戸っ子みたいな言葉を使ったりする。
  • 2:「用の美」の定義には大きく分けて二通りあるようだ。一つは用を追求していった結果獲得する美。今一つは用途と美の両立を目指した美。
  • 3:○人を切る道具である刀がその機能を磨いて行った結果、背筋の凍るような美を具現した、と言うのが用美一体論。
    ○〈切れ味を犠牲にしても美しさを引き出す〉あるいは〈美しさを犠牲にしても使い勝手を重視する〉と言うのが用美二項対立論。
  • 4:ルドルフ・オットーは『聖なるもの』でヌミノースを二つの切り口に分けて説明している。それは戦慄的な神秘と魅力的な神秘の二つの面である。たとえそれが予期していたものであっても、絶対他者との遭遇は逃げ出したくなるような恐怖を伴うものである。それ と同時に、恐ろしい、身の毛もよだつような体験とは、「こわいもの見たさ」と言われるようにしばし魅惑を含んだものとなる。このようにヌミノースは戦慄と 魅了という二律背反的な要素を内包する。(Wikipedia より)

 

 

刀剣に特別興味のない人にも 「貴重な技術なんだろう 」くらいには認知されているだろう。また鍛刀場のシーンなどは一種霊妙で凛然たる雰囲気があり、刀剣好きでなくとも魅了されるものがある。刀鍛冶は神秘化 されて逸話や伝説となっていたりするほどなのだ。

私のような十日間も登り窯を焚く者でも、火にまつわるイメージにはコロリッと参ってしまっ たりする。

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