1200℃超 発光する焚き口
何かを〝知る〟と言うことはカテゴライズすることだ。 そのときカテゴリーは暗黙裏に不変を宣している。 不変カテゴリに慣らされた認識主体にとっては窯焚きはむつかしい事象だ。 なぜならその全行程が一瞬も止まることのない変化の過程だから。 言葉は流動変化そのものを言い表 すことはできない。 言葉で伝達可能なものはいつでも、流動変化とはほど遠い。 それどころか流動変化を隠してしまうものだ。 しかし、焚き方を指示しなくてはならない。 それも言葉で伝える他ない。 言葉で言い表されたとたん動的なニュアンスは切り捨てられ、確定的で機械的反復可能なデジタル言辞として伝わってしまうのだ。
慣れるまでは機械的反復になってしまうのはしかたないことだ。 何十窯も焚いてようやく全体を複雑なままに見渡せるようになるのだから。 それに、機械的反復で8時間焚いたとしても窯焚き全体からすれば一時のことだ。 私が休んでいる間に少々おかしくなったとしても必ず修正できる。 よけいな心配などより窯の発する信号に集中することが肝心だ。 窯の言葉signを聞くということは、人の言葉の外部を知ることだからだ。 窯の振る舞いにシンクロするということは、習慣的な感受性を脱ぎ捨て濃密な差異の振る舞いに触れることだからだ。 「音を聞け。燠(おき)の量と色 を見ろ。発散する熱の圧力を感じろ。窯の機嫌はよいか」*注1 あまりに抽象的?! いったい何を「音」「量」「色」「圧力」の基準にすればよいかと問いたくもなる。 窯の「機嫌」ってなんのことだかさっぱり解らん。 もっともなことだ。 もちろん「何分毎に何本」と言うような指示もする。 しかし松割木は一本一本太さも重さも密度も乾燥の度合いも違う。 当然、燃え切る時間も一くべ毎に違う。 くべる毎に温度も違えば燠の量も違う。 機械的反復などどこにもない。 なのに慣れてくるとジャストタイミングで割木をくべることができるようになる。 なぜなら次にくべるタイミングはちゃんと窯が窯の言葉で指示してくるからだ。 「音を聞け。燠の量と色を見ろ。発散する熱の圧力を感じろ。窯の機嫌はよいか」 窯焚きではこの何も指示しなかったに等しい言葉が最も多くを語るのだ。
私たちの思考は変化を捉えるときも「不動の点」を設定してしまう。 〝不動の点〟とは要請された〝でっち上げ〟でしかないのだが、実用的には充分有効なことは誰もが知っている。*注2 たとえば、円周率を使いやすい桁で切ってしまうことは実用的だと言うことだ。 0.99999・・・・・・ と無限に続けていけば極限値1に収束すると考えることは実用的だと言うことだ。 しかし実用的だからと言って無限に続く数列があることを等閑に付して良いと言うことではない。 原子を物質の最小単位だと考えることは実用的だと言うことだ。 しかし物質的実在である原子を大きさも延長もない幾何学的点と同一だと考えるのは無理がある。 私たちが有限だからと言って無限なものがあると言う予感を投げ捨ててしまって良いと言うことではないのだ。 無限なもの。それは潜在的なものだ。 それは考えるほかないもの、感じるほかないものだろう。 その無限なものが差異を反復している。 無限の差異の反復があるから個々の現象が、つまり私たちがある。 それはリアルだと言っても反論はないだろう。 確かにあるのはそれらの刻刻の〝変化〟つまり生成する「つい先ほ ど」と「今」の間で変化し続ける〝差異〟なのだ。 音と音、量と量、色と色、圧力と圧力、機嫌と機嫌の間にある差異が、また差異と差異との間にある差異の全体が窯の発する信号=〝ことば〟なのだ。 そしてその〝ことば〟は私たちが前言語的に発する〝ことば〟=コノテーションとまったく変わらない。*注3 無数の差異が渦巻き漂うだけの闇を手探りで進むかのような窯焚きを繰り返しながら、いつかそのことに気づくだろう。 こんな彷徨を経てようやくパイロ メーター(温度計)などに頼っていては決して得ることのできない複雑な現象そのものの窯とのディアローグが生まれるのだ。 ゆえになによりも窯の発する信号を感じ取ることが肝要なのだ。
『どこにも心を留めず 見るともなく全体を見る それがどうやら ・・・・・・・・〝見る〟ということだ』 井上雄彦「バガボンドvol.4」より
窯は一くべの結果がすぐに現れるのではなく、一くべ一くべの積畳からその変化の様相をゆっくりと表出する。 バケツをたたけばガンと鳴る。ワンコをたたけばキャンと鳴く。 そういう直接的なものなら分かりやすい。 雷がピカリと光ってしばらくしてからゴロゴロと雷鳴がする。 次々と稲光がすれば、後から聞 こえる〝ゴロゴロ〟のどれがどの〝ピカリ〟だったかは判然としない。 窯焚きの一くべ一くべもまさにそんな感じだ。 たとえばパイ ロメーター(温度計)の信号だ。 それもまた窯の発する信号の一つであり、けっして役に立たないわけではない。 今日、メーター はデジタルである。 瞬間的な温度の変化をリアルタイムに表示する。 しかしメーターがデジタルであっても、デジタルなデーターからアナログな窯の信号を読み取らなくてはならない。 ところがただ瞬間的な温度の上がり下がりにばかり気をとられ、窯の発する信号のゲシュタルトに注意が向かなくなる。 おまけにそれは意外なほど焚き手を消耗させていたりする。 窯の中で起こっていることは光・音・放射熱のアナログな連続体であり、複数の要素が絡み合い共変する複雑な現象なのだ。*注4 現象を要素に分解し分析するやり方では決してたどり着くことの出来ない名無きリアリティとでも言えようか。 だから慣れてくるまでは雲をつかむようで、今窯が発している信号がなにを意味しているかなど分からないものだ。
たとえば赤ん坊が発する信号は言語(デノテーション)的には理解不能だ。*注5 母親はその意味を内部観測的に直感的に判断する。 たとえば動物が発する信号は言語(デノテーション)的には理解不能だ。 私たちはその意味をやは り内部観測的に直感的に判断する。 注意深くカテゴライズの誘惑を退け、観測を繰り返せばしだいに信号の意味を直截的ににかつより具体的に理解するようになる。 大切なことは、この場合内部観測とは全体性へのアプローチであり、分析や分類ではないことだ。 それは複雑な物事を複雑なままに理解する直感的なひらめきとも言えるだろう。 状況と体験の総合とは一つ一つの要素に還元することのできないゲシュタルトだからだ。 それ故それを 言語によらないディアローグと呼ぶのだ。
だから窯焚きは全身全霊で窯の発する信号を感じなくてはなくてはならない。 窯焚きの修行とは、機械的反復の精度を磨くことではない。 それでも感覚が再編されればおのずと機械的反復の精度も磨かれてくるだろう。 また、マニュアル化できる法則や原理の追求でもない。 それでも複雑で冗長な情報の中からおのずと法則的なものや原理的なものができてくるだろう。 決してその逆ではないのだ。 ところが熟練者と呼ばれるようになる頃、往々にしてそれが逆転してしまう。 クリ シェに陥ることをもってその道のオーソリティと見なすという文化の悪弊がこんな所にまでおよんでいる。*注6
百回でも千回でも、常に初めてのように。 初めて世界と対面する嬰児のように、窯のコトバならざるコトバに耳を傾けよう。 それは、流動変化しながら間断なく生成してくる差異の、限りなく微少な方向と限りなく巨大な方向へと同時に注意深く歩み続けるような旅だ。 それは、選択肢を絞り込みより確定的になっていく旅ではなく、進むほどに無際限に広がり続ける選択肢を選択することのできる自由度をより無限定にしてゆくような旅だ。 それは、つかんだものが〝確信〟へと硬直する前に捨て続けるような旅なのだ。 それは、積み重ねたものが〝自信〟へと石化する前に突き崩し続けるような旅なのだ。 それは、目的地への到達を持って終わる旅ではなく、永遠の途上としての旅なのだ。
BIZENの窯焚きは長丁場でしんどい。 手伝ってくれる若者たちは気の毒なくらいだ。 だが焚き終わった時のみんなの顔は不思議な満足感をたたえている。 彼らも対話を経験したのだ。 データーや意味のやりとりではない。 それはあたかも音楽のセッションのようなもの。 それは肉体のぶつかりあうスポーツのようなもの。 それは1200度の光熱とのコンタミネーションだ。*注7 窯のことばとの混交で私たちのことばは異なるものへと進化するのだ。 こんな愉快な旅、やめられるわけがない。
焚きあがり間近の煙のことばを聴く
用語解説
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