○6年前私は大切な友人をがんでなくしました。当時小学校5年の息子さんと6年の娘さんに「私に万一のことがあってもしっかり生活していけるように。」と指導し人生の指針を教授され37年の生涯を閉じられました。 ○都立の名門日比谷高校出身で、聡明な美人でした。 ○ご主人とは「たまたま行った岡山出張で電撃的に出会ってね。」と話してくれました。 ○亡くなったのは、2001年11月30日。夏休み前の終業式の日、甲東園の戸建てを購入し引っ越して行きました。この頃既にがん細胞がからだ中に増殖していたようです。 ○9月に手術を受け「とりあえず成功してね。でも、昼間一人なので、来てほしいの。」検査室に移動するとき足元がふらつき不安だったようです。背中と腰が痛むようで、なでてあげました。「私ね、わがままで社宅を出て、家を買ったけど、万一のときは4,300万円の保険に入ってるから、子どもに家も残してあげれるし、思い残すこと何もない・・・。」などと・・ ○10月に本人から連絡があり「退院して自宅療養してるの。週に1度抗がん剤の治療を受けに県立西宮病院に通院すればいいのよ。今、痛みもなく落ち着いてて、だいぶ楽になってきた。もう少し良くなったら一度遊びに来てね。」最後の会話になりました。 ○11月20日頃「Fさんが危篤で、昏睡状態に陥ってて」と連絡。 お母様が一人で看病されていて、「娘が気が合うっていってた人あなただとすぐにわかった。部屋に入ってやって。」と言われました。 ○9月末にあったときとは全く違い、黄疸も出て、やせ細り意識も無い。「あんなに意気投合して、将来のビジョンを話して盛り上がったのに、いやだ!」悲しくって大泣きしてしまいました。 ○「病気になってから、ずっと心の支えになってくださっていたドクターYさんに、逢って話がしたい。」と言っていたのを思い出し、友人を通じて連絡を取り、11月30日お昼過ぎ一緒に面会に行きました。 ○彼女が亡くなったのは、ドクターと面会した3時間後でしたので、声など出せるはずもないのに、ドクターが「Fさん。Yですよ。わかりますか?絶対にあきらめないんですよ。良くなるからね。」って話しかけられたら、うなるような声で「ううーーーんんん。」と返答があり、ご主人や家族が驚嘆されていたのが今でも忘れられません。息子さんが少し前に「お母さん!」と号泣した時は、声が聞こえたようで、頬に涙のあとがうっすら残っていました。 ドクターは放射線治療の研究を長年されてきた人なんです。 http://web.pref.hyogo.jp/governor/new200408.html ○見舞いに行ったときホール・ケイン作「永遠の都」愛読していた。 ○最後の別れのとき、透き通るような美しい肌になり、微笑んでいた彼女は奇跡の勝利の人生を送ってきた人だ!と誇りに思いました。 今の時期になると毎年思い出す大切な忘れがたき、親友です。 |