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2007年07月15日(日) 

 

 

化以前に「作る人」ホモ・ファーベルがあった。そして「作る人」以前に「遊戯の人」ホモ・ルーデンスがあったのだ。アーティストとは、生命現象としての試みを生きる「遊戯の人」であり、無垢なる戯れの中で「作る人」なのである。
「作る人」とは、無数の生の波動が起こす渦のただ中に身を置く者であり、同時に渦の一つとして波動を生み出す者である。
故に、たとえものを作る人であっても二次的な制作は「作る人」とは呼ばない。ここで言う「作る人」とは「作る人」という濃密な生き方を生きてしまう、あるいは「作る人」として生きることを敢然と受け入れた者のことである。

のを作ると言う行為は決して自己完結的に閉じられているのではない。私たちは常時自己の外部、 他者や自己を取りまくあらゆる事象と関係している。外部との関係なくして自己はあり得ないだろう。「作る人」は制作の中で、また制作を通じて自ら変わりつつ外部を変え、外部を変えつつ自らを変え続けてゆくのである。
また、通念に反して、作られたもの〈作品〉は完成品として閉じられるのではない。もしそうであるのなら、それは死物でしかないだろう。どうして死物に生の波動を伝えたりすることができよう。作品は根元的に未完である。それは常に開始として開かれてある。
波動は作品という開かれた場を介して伝わり、その結果多数の「作る人」が生まれるだろう。「見る人」も「使う人」も等しく、事物の意味と自己自身を創造する「作る人」なのである。

作る人」は本質的に多数性・多義性の人である。それは差異の生成する「場」そのものであるとも言えるだろう。差異の生まれないところ、変化の起こらないところに生命はない。
文化とは常に生成流動しているのであり、いかなる瞬間も変化の過程なのである。それはまさに生命現象そのものである。
創造という行為を通じて共に生き、共に変わる。そしてその喜びを生きる。それが「作る人」だ。いかなる時代にあっても、どの様な地域でも、生命あふれる多様な文化を生み育んできたのは「作る人」ではなかったか。
「見る人」も「使う人」も等しく「作る人」ならば誰もが皆、生の波動を発する渦である。私たちは作品を介して波動を送り受け取る。「作る人」それは差異の生成であり、変化の過程であり、生命の波動なのだ。     

て、

私たちは何によってここに集うのか。

それは既存のカテゴリーによるのではない。

「作る人」は既存のカテゴリーに囚われない。

囚われないどころか、既存のカテゴリーにさえも自由に出入するだろう。

そして硬化した古いカテゴリーに揺らぎをもたらし

〈いま・ここ〉性として幾度でも蘇生させるだろう。

 

たまえ!土耕虫 EarthWorm は境界を持たない。

ただ日々、土を喰らい大地を肥やす。

肥沃な大地はあらゆる生命を養い、あらゆる生命がまた大地を肥やすだろう。

土耕虫 EarthWorm は大地そのものだ。

そして大地は生命そのものだ。

命が大地に満ちるように、大地には土耕虫 EarthWormが満ちている。

私たちは、生命という差異に満ちた試み、境界を持たぬ具体性

=「作る人」であることに於いて集うのである。
ここに佐用町作家会 EarthWorm を発足する。

 

文責 作家会代表 黒野丈治
2006.11

 

 

 

 


閲覧数2,063 カテゴリ■佐用町作家会EarthWormの跡 コメント2 投稿日時2007/07/15 20:59
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