中国胡錦濤国家主席が日本を訪問しています。またまた日中友好に水を差すつもりはありませんが、台湾南部に水の性質をうまく利用して、環境の負荷を小さく抑え、持続可能な技術を使って水資源開発を行い、広大な農地を拓いた日本人技師=鳥居信平氏のお話です。 暫くお付き合いください。 フリージャーナリスト平野久美子氏の報告です。 ここ二十年ほどの間に、台湾では地下水を多量に使うブラックタイガーやウナギの養殖地が急増したため、地下水が枯れて地盤沈下や土壌の塩害が広がっている。特に南台湾の沿岸地方では、海水レベルが地下水層より高くなっている場所もある。ちなみに養殖エビやウナギは日本に輸出されている。台湾の水問題が深刻になってきた1980年代から、鳥居信平氏が心骨注いで造った地下ダム=二峰土川の発想と工法を参考に、渓谷の水を人工池に貯め、地下水を増やすことで地盤沈下を防ぎ300haの農地に水をめぐらせる事業が屏東県の中部の大甲渓で始まっている。 日本統治時代の知恵を台湾の未来に活かして、自然と共生する社会を目指す人々の姿は、「飲水思源の心」を見る思いである。 “飲水思源”とは、 「その実を落とす者はその樹を思い、その流れに飲む者はその源を思う」という、北周の詩人・癒信の「徴調曲」という詞に基づく故事成語で、水を飲んで“ああ美味かった”とその流れの水源に思いをはせるように、いつも物事の根本を忘れず、私達の現在があるのは先人が流した汗と涙のお陰であり、後世(子孫)に何を残せるかを考えなければならないという意味である。 では、今から80年以上も前に、伏流水を利用して、環境に配慮した工法で15万haの農地と今でも20万人の農民が恩恵を受けている鳥居が造った地下ダムとは、 1919年台湾に派遣された鳥居氏は、農場開設のためマラリヤの特効薬キニーネを持参して、2年間標高3000メートル級の山々を歩き回り、伏流水が屏東平野の海抜15メートル地点まで流れていることを突き止めた。伏流水の動水勾配が最急でも1/65であることを考慮して、河床の垂直変動が最も少なく、安定的に取水できる場所を地下ダムの止水堰の位置に決定した。 1921年から始まった工事は、水が干上がる11月から4月にかけて河床を一気に掘り、全長約145メートル、勾配1/100の堰を埋設。 堰に集めた伏流水を3,436メートルの導水路を通して第1分水工に送った後、暗渠を三方に伸ばし、さらに支線を網の目上に張り巡らして扇状地に水をゆきわたらせた。 農場予定地の開墾は、原住民パイワン族の協力を得て整地し、コンクリート状の固い土層を2メートル掘り起こして土を全て入れ替えた。1921年2,500haの農場が完成し、地下ダムは工事を依頼した台湾製糖山本社長の雅号にちなみ、二峰土川と名づけられた。5年後には1,700haの農場が新たに開設された。土壌水分をコントロールすることにより、作付けされたサトウキビの糖分が上昇、収量も増加して二峰事業は会社の発展と地域住民の生活向上に大きく貢献したことで、鳥居氏は日本農学賞を受賞した。 鳥居氏は、地域住民の生活向上のため雨期の稲作、乾期のサトウキビの輪作体系を導入した。この輪作体系は八田與一氏に引き継がれ、烏山頭ダムでは、5万ha分の水で15万haの豊穣な農地を生んだのは、サトウキビ、米、雑作用に耕地を3つに細かく分け、1年ごとに順番に作付けしてかんがいしたからである。現在日本で行われているかんがい技術である。 鳥居氏の造った地下ダムは、台風が来ても水は濁らず、伏流水を利用しているため、乾期でも安定した水量があり、しかも維持管理が経済的である優れもので、伏流水をこのように大規模に利用したかんがいはなく、きわめて斬新な試みだったため、当時の大正12年7月25日付け国民新聞でも絶賛された。現在に置換えても環境負荷の少ない経済的な優れた工法であるといえる。 八田與一氏の業績はこちらを参考に http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=32025 |