生きてるってなんでしょね。 社会システムとは良くも悪くもカオティックで濃厚な生の実感から人を隔離し擁護しているのかも知れない。 人とモノであふれかえっているがすべて抽象的で希薄なのだ。
大量の人がただ大量に消費するためだけに特に必要でもないものを大量に生産する。 その為に人生のほとんどを費やすワケだが、そうしないと食っていけないと思っている。 それはいくらかは事実だが、いくらかは強迫観念でいくらかは弁証法的な人生の目的意識なのだ。 たしかに特に必要でもないものを大量に生産してるだけかも知れないが、そういう人自身は自分を社会的に有用だと思っているし、より有用にならなければとメリトクラティックmeritocraticな切迫感を感じている。 それは種としてのヒトに特有の社会的な環境圧とも言える。 その主な要素は恣意的で無根拠だが、その中で人は〝存在へのあがき〟struggle for existenceを生き抜かなければならない。 目に見えぬその圧力の不気味な現実感を知らぬものはいないだろうが、ダーウィンが言うように必ずしも有用な者が生き残るわけではない。 そんなわけで人生のほとんどを費やして大量の人がただ大量に消費するためだけの特に必要でもないものを大量に生産することでメリトクラシーの階梯を争う。 それは確かに人生に目的を与えてくれるものであるのみならず人生の意味でさえもあるのだ。 生きてるって素晴らしい。
FMでパーソナリティーが喋りまくってる。 喋るのが仕事だから仕方ないのだろうが、特に喋る必要もないような内容だ。 番組があるから喋らなくてはならない。 滝のごとく言葉を量産する。 少しでも言葉がとぎれれば放送事故だ。 じゃ番組がなければ喋らなくても良いかと言うとそうも行かない。 飯の食い上げだからだ。 とくに喋る必要もないことを大量に喋る仕事だが、とくに喋る必要もないことを大量に喋って特に聞く必要もないことを聞く大量の人々を飽きさせず楽しませることは確かに才能がなければできることではない。 そう言う能力を持った者は有用だし、より有用にならなければ職を失うかも知れないのだ。 つまり社会とは大量の人が飯を食うために特に必要もないようなものを大量に生産し、特に必要もないようなものを大量に消費するシステムってことだ。 そして必要もないようなものを大量に生産する為に人生のほとんどを費やして得た報酬で特に必要もないようなものを大量に消費することで、特に必要もないようなものを大量に生産する為に人生のほとんどを費やした虚しさを埋め合わさなければとてもやりきれないワケだ。 もっともなことだと思う。 特に必要もないようなものを大量に消費することでめでたく虚しさを埋め合わすことのできる人々のおかげで、特に必要もないようなものを大量に生産しなくてはならなくなるので虚しいながらも特に必要もないようなものを大量に生産して飯を食っていけるワケだ。 かくして社会は循環型に丸くおさまる。
ところで、特に必要もないようなものといえば、私の仕事はその代表みたいなものだが、ただ大量に生産しなくてはならないことはないし実際大量に生産していない。 その理由は大量に消費されていないと言うこともあるからかもしれないが、大量に消費されたい気があまり本人にないからかもしれない。 なぜなら大量に生産するのは面倒のわりに虚しいからだ。 特に必要もないのに少量生産することは特に必要もないのに大量に生産することにはない差異的要素がある。 特に必要もないのに少量生産することは特に必要もないのに大量に生産することと異なり循環から差異を取り除かない。 特に必要もないのに少量生産することは差異を循環させることだからだ。 芸術は弁証法とは違う。 それは意味と目的の階梯を持たない。 芸術は差異の偶然性の必然だ。 永遠の差異の連鎖だ。 それは生成そのものを肯定する。 と言うより特に必要もないようなものを少量しか生産していないのだから、特に必要なくてもせめて少量でも消費してもらいたいと言うのが正直な話だ。 そうすれば少量しか生産されない特に必要もないものを特に必要もないのに少量消費することの、大量に生産された特に必要もないものを特に必要もないのに大量に消費することとはひと味もふた味も違ったアンタンシテintensit'eな悦びを経験することができるかも知れないのだ。 そこには特に必要もない私たちの人生そのものの底知れぬ〝生きている〟悦びの実感があるかも知れない。 Carpe diem. オススメだよ。 ぜひとも一度試してみたまえ。
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これは同語を反復し続けてしまいには何を言ってるのか分からなくなるってスタイルの、特に必要もないようなお話です。 楽しんで頂けましたでしょうか?チャンチャン。
◎用語解説
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