白兎神社を出発し、1時間もすると車は倉吉に到着。
倉吉市役所の駐車場に車を止め、徒歩で里見忠義の墓所にある、曹洞宗「大岳院」に向かいます。 里見家は安房では代々が曹洞宗の寺院を菩提寺にしていたことから、墓は曹洞宗の大岳院に建てられたとのことです。 途中、忠義の屋敷があったとされる場所を通りましたが、今では普通の民家がたっており、時の流れを感じさせます。(写真左) 倉吉市の市街地は日本海からわずか八キロ内陸にはいった場所にあります。市街地の西には国府や国分寺がおかれていた伯耆国の中心地があり、市街地は小鴨川と国府川の合流地点と、その下流の竹田川との合流地点のあいだにつくられた打吹山城の城下町でした。 大岳院はその北側の本町通りに面して立派な山門が建っています。忠義の墓所の中央にある大きな墓は、忠義の子孫で越前鯖江藩(福井県鯖江市)の藩士になった里見義孝の墓で、その左に家老の堀江頼忠、右側の少し小さいのが里見忠義の墓です。この三基が殉死家臣の墓に囲まれて建てられています。義孝は宝暦九年(一七五九)に没した人で、その子義徳が建てたのでしょう。義徳は本織の延命寺(三芳村)にも義孝のお墓を建てています。家老の堀江頼忠より里見忠義のお墓のほうが小さいのが哀れをさそいます (館山市立博物館発行「さとみ物語」より) 大岳院で、里見一族の墓所にお参りを済ませ、付近のまちなみを散策してみました。 里見家改易・配流の地「倉吉」と聞くと、随分辺鄙な場所かと思いきやさにあらず。 打吹山を中心に城下町が形成され、ふもとの玉川沿いに並ぶ赤瓦や白壁土蔵群をみると、倉吉がこの地域の政治・経済の一大拠点であったことがうかがえます。 朝10時前から、まちのあちこちを散策する観光客の数はかなりのもので、まちづくり・観光振興で館山は完全に負けているな、というのが正直な印象でした。ここでは、時間がゆっくり流れていくのが感じられました。(写真右) この後、倉吉から三朝温泉郷に向かい、昼食をとることに...。 (つづく) |