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2007年02月15日(木) 
居眠りから目覚めると既に車は鳥取市街地に。
宿に入るにはまだ時間があったので、鳥取城跡と仁風閣に立ち寄りました。

文献によると、
天正元年(1573)に山名豊国が鳥取城を因幡山名氏の本城として整備し、中国の大勢力にのし上がってきた毛利氏一族の吉川経家の傘下となり、その後、天正4年(1576)に足利氏最後の将軍足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びると、信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じる。
天正8年(1580)の鳥取城攻めでは、山名豊国は秀吉の軍門に降ったが、家臣が山名豊国を追放したことから毛利氏は吉川経家を鳥取城主とする。
天正9年(1581)秀吉は2万の大軍で鳥取城を取り囲み、軍師黒田官兵衛の進言で兵糧攻めの作戦をとった。このため鳥取城内では飢餓地獄に陥り、籠城4ヶ月にして吉川経家はついに開城して自刃した。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、池田長吉が6万石で鳥取城主となると、城の中心を久松山山麓に移して、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在に伝わる鳥取城が完成した。
元和3年(1617)姫路から池田光政が32万5千石で鳥取城主となり、城下町の整備を行なった後、寛永9年(1632)岡山城主の池田光仲が池田光政と入れ替わって鳥取城主となり、以後光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えた。
とのことでした。

で、その近くにあるのが仁風閣で、1907年この池田家の別邸として建てられたフレンチルネッサンス様式の洋館です。
明治40年皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓の宿舎としても利用され、国の重要文化財に指定されています。
設計は明治の三大宮廷建築家の一人、片山東熊工学博士と言われ、「仁風閣」の名称は、皇太子に随行した海軍大将東郷平八郎が命名しました。
中に入ると豪華な造りで、当時の建築技術の高さがうかがい知れます。
興味を引くのがトイレ(写真中央)で、説明板によれば「木製箱型ワク付の腰掛便器で、(中略)箱の内側は銅張りの引き出し式になっていて砂を入れて使用したものと思われる」だとか。
ということは、皇太子がこれで用をたすと、「御汚物特別処理班」みたいな人が片付けたちゅうことかも?
用をたす方も、片付ける方も、なんだかなって感じですね。
閲覧数118 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2007/02/15 12:46
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