書き込み数は6件です。 | ◀▶ |
捕鯨母船の建造は続き、戦前の日本は六つの捕鯨船団を保有するようになります。 播磨造船所は、捕鯨母船の建造はしていませんが、昭和13年に極洋捕鯨のキャッチャーボート第6京丸~第10京丸を建造しています。 写真は南氷洋で操業する第三図南丸と油槽船の厳嶋丸(日水50年史) |
日本水産の捕鯨母船は、大阪鉄工所(現日立造船)桜島工場で建造され、完成した姉妹船は「第二図南丸」「第三図南丸」と命名されました。 第二図南丸・第三図南丸は全長169メートル、1万9206総トンの巨船で、商船としては日本最大でした。軍艦と商船ではトン数の表示が異なりますので比較は難しいのですが、船の容積では戦艦・空母に次ぐ大きさです。建造にあたっては、海軍からの援助がありました。捕鯨母船は船団各船へ補給するための重油タンクや鯨油タンクを装備していますので、戦時には油槽船として使用できるからです。 昭和13年5月1日 第三図南丸の進水を伝える日本 … [続きを読む] |
日本が母船方式の捕鯨にのりだしたのは1934(昭和9)年のことです。 日本は捕鯨のための企業(日本捕鯨・後の日本水産捕鯨部門)を設立し、当時世界一の捕鯨国であったノルウェーから捕鯨母船アンタークチック号を購入しました。アンタークチック号はノルウェーを出航し南氷洋での試験捕鯨を経て神戸へ向かいます。その途上、アンタークチック号は図南丸と船名を改めました。 図南丸の捕鯨が成功すると、日本水産は捕鯨母船の建造に踏み切りました。それが、第二図南丸と第三図南丸です。 第三図南丸の進水記念絵葉書 福田功氏提供 |
図南丸は「となんまる」とよびます。 中国の古典「荘子」は、人生の理想的境地を表す寓話「鵬図南 おおとり、南に羽ばたかんとす」から始まります。 北の海に鯤という巨大な魚がいた。鯤(こん)は生まれ変わって鵬になり、南の海へ向かう。地上にはさまざまな生物が息吹きあって陽炎や砂煙が立ち上る。しかし、上空は青一面である。あの上空は本当に青色なのだろうか、それとも無限に遠いので青く見えるのであろうか。地上からみれば、空が青一色に見えるように、あの鵬からみれば、地上に蠢く小物たちの動きなどは目に入らず、地上は一色に見えることであろう。 南 … [続きを読む] |
播磨造船所(IHI相生)で建造された船は千隻近くありますが、相生市民に最も愛された船は図南丸です。 実は、図南丸は相生で建造された船ではありません。この船は、昭和13年に第三図南丸として大阪で建造されました。商船としては、戦前の日本で最大の船です。太平洋戦争が始まると、第三図南丸は油槽船として南方資源の輸送にあたっていましたが、昭和19年、トラック島の海軍基地で米軍機に空襲され沈没しました。昭和26年、この第三図南丸を引き揚げて相生に曳航し、半年をかけて修繕した船が図南丸です。銘板には「RECONSTRUCTED」と記入されています。 昭和26年、日本は … [続きを読む] |
捕鯨母船は、捕鯨船団を率いて南氷洋で操業する船です。船団は、捕鯨母船を中心に、捕鯨船(キャッチャーボート)や運搬船など20隻近い船で編成されています。捕鯨母船は、鯨の解体作業や鯨油の保存、捕鯨船への燃料供給など船団の中核的な業務を担います。 写真は、日本水産に提供していただいたもので、図南丸が鯨を曳いている貴重な写真です。右上の船は、図南丸で解体した鯨を運ぶ船です。カラーの写真は、キャッチャーボートを従えて南氷洋を航行する図南丸です。 私が図南丸について調べ始めて暗中模索していた頃、この二枚の写真を日本水産に提供していただきました … [続きを読む] |
◀▶ |