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7月に相生市仏教会の講演会で話したことを元にして、一ヶ月かかってブックレットにしました。 秦河勝の漂着伝承、中世矢野荘の成立、近世赤穂藩と天領、播磨造船所の興隆と相生市の成立、そして21世紀のまちづくり という構成です。 矢野荘が成立し、そして解体、旧矢野荘とほぼ同じ領域が相生市として再生するまでのコンパクトな通史を、写真をまじえて読みやすくまとめました。 私の知る限りでは、一人が書いた相生市の通史は、これが初めてだと思います。一人で書くと主観が入りますが、論旨が明快で読みやすくなります。 このブックレットは、私の主観・感想 … [続きを読む] |
求福教寺は、三濃山の頂上にあります。 自動車は入れませんので、羅漢の里から一里近い山道を歩いて登ります。近年、テクノから30分ほどの近道ができて、こちらから歩いていくこともできます。 求福教寺は、貞観6年(864)、秦内麻呂が秦氏の祖である秦河勝を偲んで創建しました。その後、源義家の保護を受けて三濃千坊といわれるほど栄えました。 平家の焼き討ちなどにより、求福教寺は衰退するのですが、江戸時代には、山上に三濃山村が成立し、村の人々が寺を守りました。 高度経済成長期、三濃山村から人が去りましたが、1980年頃、篤志家が観音堂や山王 … [続きを読む] |
3月3日に、矢野町まちづくり推進委員会・相生歴史研究会・相生いきいきネット主催の三濃山シンポジウムが開催されました。私は「三濃山の魅力」という基調講演をしました。 三濃山は、中世矢野荘の北端にある最高峰です。平安時代、秦氏が求福教寺を創建し「三濃千坊」といわれるほど栄えました。中世には、赤松氏の感状山城が築かれ、近世には三濃山村が成立しました。 しかし、高度経済成長期、三濃山村から人が去ります。 日本の歩みを縮図にしたような山です。 1980年頃、篤志家によって、求福教寺は修復されました。 これから、三濃山求福教寺はどうなるのでしょ … [続きを読む] |
11月11日(日)、相生歴史研究会企画の講演会があります。相生歴史研究会の30周年記念講演で、テーマは「相生を写した古絵葉書」です。 今年から、相生歴史講演会の理事になったので、講師がまわってきました。実は、今年、相生市で講演をするのは3回目なので、「三濃山シンポジウム」・「ふるさと相生再発見」とは、まったく趣旨の異なるものを考えました。 今回は、絵葉書など相生の古い画像を楽しんでいただくとともに、自分の経験したことを何でもよいから記録しましょうというよびかけをしたいと思っています。 ゼロから文章をおこすのは大変ですが、写真を見な … [続きを読む] |
一年あまり更新していなかったひょこむを再開することにしました。 こり間、ミクシィやフェイスブックも使ってみましたが、イマイチです。 ミクシィは、ユーザーが減っているようです。 フェイスブックは、実名なので、昔の知り合いが連絡してきてくれるという効果はあります。 ひょこむは、趣味で取り組んでいる写真集作りの記録にしようと思っています。 |
南氷洋での捕鯨が終わると、捕鯨船団は日本に帰ってきます。4月下旬、図南丸は上質の鯨肉をお土産に相生に入港し、夏季はペルシア航路でタンカーの任務につきます。そして、秋になると再び相生に帰り、ドック入りして南氷洋へ向かう準備をします。キャッチャーボートや冷凍運搬船、油槽船など船団を組む船も相生に集まってきます。 昭和37年の場合ですと、10月23日相生を出港、10月30日神戸から南氷洋へ向かい、11月22日南氷洋に到着予定となっています。 「図南丸が入ったよ」という会話を聞くと、小学生の私も何となく心はずむ気分になったような想い出があります。 停泊し … [続きを読む] |
相生を出航した図南丸は大阪に入港、10月31日船団を率いて大阪から南氷洋に向かいました。これが第6次の捕鯨です。 図南丸は、昭和26年から昭和40年10月出港の第20次まで南氷洋で15回の捕鯨に参加、日本水産は第二図南丸とあわせて二つの捕鯨船団を保有していました。昭和41年春の帰国で南鯨は終了し、図南丸は昭和42年から45年まで、北洋の捕鯨に4回出航、昭和46年にすべての任務を終了しました。 写真は、鯨のヒゲに描かれた図南丸 1952 No7WHALING TONANMARU |
図南丸出航の日、造船所が見える青木の鼻から横山海岸には、市内の生徒五千人をはじめとして多くの市民が集まり、日の丸の小旗を振って図南丸を見送りました。 ドックを出た図南丸は、小旗を振る市民の前まで曳航されてから、相生湾を南下しました。生徒たちは、この日のために作曲された南氷洋捕鯨の歌を歌い、図南丸を見送りました。 南氷洋捕鯨の歌 作詞土岐善麿 作曲 堀内敬三 時は来たれり 菊日和 壮途輝く 黒潮や 赤道遠く希望を乗せて 船団浪を衝きゆくところ 祖国よ今ぞ栄えあれ 踊る巨体に 雲晴れて 意気も鋭く放つ銛 南氷洋 … [続きを読む] |
船上の乗組員も、最後の別れを手に手に打ち振っている。雲の間から、薄日が落ちて、彼女の姿をくっきり浮き立たせている。 本当にさようなら。快速十五節を誇る女王は、エンジンの音もなく、薄く煙る水平線上に、小さく黒点となって、一路大阪に向かった。 新播磨新聞1951年10月18日号より 手を振る乗組員 写真提供 高田さん 去りゆく図南丸 写真提供 IHI |
狂気地味た声、声、波、波。船の動きにつれて移動する人の波。振る旗、振る手、泣いている、一人二人三人、数え切れない。涙こそ出ず、ちらっと見上げる人々の目にキラッと光るものが見える。うれしいのだ、うれしいのだ。自分たちの子どものようにいたわりつづけた難作業を終えて今、再建日本のために世界捕鯨戦に従で立つ姿なのだ。 泥にまみれて相生湾に投錨した4月の初め、赤錆びの怪物が「こんなにきれいになりました」と云わんばかりに笑っているようである。見送りの船に付き添われて、船は岸壁を遠く離れた。切れたテープが風に揺れている。別れを惜しむ人々は … [続きを読む] |
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