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2009年11月23日(月) 
浮揚作業は、規模の大きさ、工事の難しさから世界の注目を集めるなかで進められ、3月3日、作業班は図南丸の完全浮揚に成功、播磨造船所に打電しました。陸上の施設に頼ることなく、海上作業だけで浮揚に成功したことは、高い評価を受けました。6年間海面下にあったにもかかわらず、英国アームストロング社製の鋼板で作られた船体の損耗は、攻撃を受けた部分を除くと軽微であったといわれています。

写真は浮上した図南丸 鯨の搬入口に人が二人立っています。(写真提供 日本水産)

閲覧数1160 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント1 投稿日時2009/11/23 21:31
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2009年11月23日(月) 
昭和25年10月21日、トラック島での浮揚作業が始まりました。GHQの指示で、陸上からの作業が禁止されていましたので、サルベージ船と浮力タンクによって作業を進めます。海水を排水して浮力を増しながら、転覆している船体を引き起こします。

上の写真は、第二回の引き起こし作業。左舷の鯨油タンクの空気を抜き、右舷のタンクに圧縮空気を送って、船体を引き起こしていきます。(写真提供 日本水産)

下の写真は、浮上した図南丸の甲板。空襲による被害と、転覆して海底に沈んだ衝撃で上部構造物が損傷しています。(写真提供 IHI)

閲覧数1453 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント2 投稿日時2009/11/23 21:25
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2009年08月01日(土) 
1950(昭和25)年10月7日、播磨造船の救難隊員167名がサルベージ船君島丸で呉を出港、10月21日トラック島での引き揚げに着手しました。

この工事は、工期にも厳しい制約がありました。2万トンの図南丸を曳航するためには、1万トン級の船舶が必要です。曳航する船は、捕鯨から帰る途上の日本水産の油槽船玉栄丸を使う予定でした。南氷洋から鯨油を満載して日本へ向かう玉栄丸がトラック島に到着するのが3月、それまでに浮揚を完了させます。4月に、相生で修繕にかかり、10月には日本を出発して南氷洋をめざします。そうしなければ、捕鯨開始に間に合わないからです。

写真は、浮揚し

閲覧数970 カテゴリ捕鯨母船図南丸 投稿日時2009/08/01 22:51
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2009年08月01日(土) 
当時、日本水産は企業再建のため人員整理を組合と交渉しており、播磨造船所でも人員整理が話題となっていました。
こうした状況のなかで、日本水産鈴木九平社長と播磨造船所横尾龍社長は、社運を賭けた大プロジェクトに挑む決意を固めます。

プロジェクトに要する費用は、浮揚・曳航に2億円、修繕に9億円、合計11億円という見積もりでした。従業員5000人を擁する播磨造船所の昭和24年の年間売上が23億円の時代のことです。

昭和24年に建造された三光汽船の貨物船、陽光丸の進水記念絵葉書
絵葉書の紙質から時代を感じる

閲覧数1028 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント0 投稿日時2009/08/01 22:03
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2009年08月01日(土) 
米軍の支配下にはいったトラック島では、沈没船の解体が進められていました。第三図南丸は、海底に転覆して沈没し、船底の一部が海面に見えている状態でしたが、解体を請け負った香港の企業は、第三図南丸が大きすぎて浮揚が難しいと考え、日本水産に第三図南丸を売却しました。

日本水産は第三図南丸の引き揚げ改造を計画し、播磨造船所に工事を依頼します。播磨造船所は、呉軍港に沈没している艦艇・商船の救難・解体で実績をあげていましたが、赤道に近いトラック島での浮揚作業は困難が予想されました。

写真は、1946年、戦艦伊勢の解体作業(播磨造船所50年史)

閲覧数1112 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント0 投稿日時2009/08/01 21:23
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2009年08月01日(土) 
戦後、連合国軍総司令部は日本の食糧難を緩和するため、南氷洋捕鯨を許可しましたが、当時は大型の新造船は禁止されていましたので、2万トン級の捕鯨母船の建造はできませんでした。1946年、日本水産は油槽船の橋立丸を捕鯨母船に改装して、南氷洋の捕鯨に復帰します。捕鯨は日本水産の主力事業となりましたが、1万トン級の橋立丸では能力に限界がありました。

一方、播磨造船所は漁船の建造で息をつくとともに、呉軍港に沈没している艦艇の引き揚げを行っていました。

写真は、1948年、播磨造船所がノルウェーから受注した捕鯨船SUDEROY号

閲覧数1027 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント0 投稿日時2009/08/01 20:46
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2009年08月01日(土) 
米国潜水艦の不発魚雷がつきささったまま第三図南丸は、トラック島に到着しました。トラック島は「日本海軍の真珠湾」とよばれる連合艦隊の根拠地です。第三図南丸はトラック島で工作船明石による修繕工事を受け、輸送任務に復帰、再びトラック島に入港しました。1944年2月17日、トラック島は米軍の奇襲攻撃を受け、帝国海軍は甚大な損害をこうむります。第三図南丸は前部ブリッジ付近に爆弾2発、後部に至近弾を受けて火災を起こします。その際、左舷後部機械室の仮修理部分が緩み、徐々に浸水して20日未明に転覆沈没しました。以来、1950年まで40メートルの海底に放置されてい

閲覧数1667 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント2 投稿日時2009/08/01 20:15
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2009年08月01日(土) 
 太平洋戦争が始まると捕鯨母船は徴用されて特設給油艦となり、第三図南丸は南方と内地の軍事輸送に従事していました。米軍は日本の補給路を絶つため、貨物船・油槽船に集中的な攻撃を加えますが、帝国海軍は商船の護衛体制が遅れており、日本商船隊の被害は拡大していきました。1943(昭和18)年7月14日、護衛艦もないまま南方へ向かっていた第三図南丸は米国潜水艦の攻撃を受けます。魚雷が何本も命中しましたが、当時の米国魚雷には欠陥があってすべて不発におわり、第三図南丸はトラック島の海軍基地へ到着しました。魚雷が突き刺さった姿を見た人たちは、「花魁船」と呼

閲覧数1312 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント1 投稿日時2009/08/01 20:03
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2009年05月31日(日) 
捕鯨母船の建造は続き、戦前の日本は六つの捕鯨船団を保有するようになります。

播磨造船所は、捕鯨母船の建造はしていませんが、昭和13年に極洋捕鯨のキャッチャーボート第6京丸~第10京丸を建造しています。


写真は南氷洋で操業する第三図南丸と油槽船の厳嶋丸(日水50年史)

閲覧数1266 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント0 投稿日時2009/05/31 20:31
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2009年05月31日(日) 
日本水産の捕鯨母船は、大阪鉄工所(現日立造船)桜島工場で建造され、完成した姉妹船は「第二図南丸」「第三図南丸」と命名されました。

第二図南丸・第三図南丸は全長169メートル、1万9206総トンの巨船で、商船としては日本最大でした。軍艦と商船ではトン数の表示が異なりますので比較は難しいのですが、船の容積では戦艦・空母に次ぐ大きさです。建造にあたっては、海軍からの援助がありました。捕鯨母船は船団各船へ補給するための重油タンクや鯨油タンクを装備していますので、戦時には油槽船として使用できるからです。


昭和13年5月1日 第三図南丸の進水を伝える日本

閲覧数1161 カテゴリ捕鯨母船図南丸 コメント0 投稿日時2009/05/31 20:20
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