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日本が母船方式の捕鯨にのりだしたのは1934(昭和9)年のことです。 日本は捕鯨のための企業(日本捕鯨・後の日本水産捕鯨部門)を設立し、当時世界一の捕鯨国であったノルウェーから捕鯨母船アンタークチック号を購入しました。アンタークチック号はノルウェーを出航し南氷洋での試験捕鯨を経て神戸へ向かいます。その途上、アンタークチック号は図南丸と船名を改めました。 図南丸の捕鯨が成功すると、日本水産は捕鯨母船の建造に踏み切りました。それが、第二図南丸と第三図南丸です。 第三図南丸の進水記念絵葉書 福田功氏提供 |
図南丸は「となんまる」とよびます。 中国の古典「荘子」は、人生の理想的境地を表す寓話「鵬図南 おおとり、南に羽ばたかんとす」から始まります。 北の海に鯤という巨大な魚がいた。鯤(こん)は生まれ変わって鵬になり、南の海へ向かう。地上にはさまざまな生物が息吹きあって陽炎や砂煙が立ち上る。しかし、上空は青一面である。あの上空は本当に青色なのだろうか、それとも無限に遠いので青く見えるのであろうか。地上からみれば、空が青一色に見えるように、あの鵬からみれば、地上に蠢く小物たちの動きなどは目に入らず、地上は一色に見えることであろう。 南 … [続きを読む] |
播磨造船所(IHI相生)で建造された船は千隻近くありますが、相生市民に最も愛された船は図南丸です。 実は、図南丸は相生で建造された船ではありません。この船は、昭和13年に第三図南丸として大阪で建造されました。商船としては、戦前の日本で最大の船です。太平洋戦争が始まると、第三図南丸は油槽船として南方資源の輸送にあたっていましたが、昭和19年、トラック島の海軍基地で米軍機に空襲され沈没しました。昭和26年、この第三図南丸を引き揚げて相生に曳航し、半年をかけて修繕した船が図南丸です。銘板には「RECONSTRUCTED」と記入されています。 昭和26年、日本は … [続きを読む] |
捕鯨母船は、捕鯨船団を率いて南氷洋で操業する船です。船団は、捕鯨母船を中心に、捕鯨船(キャッチャーボート)や運搬船など20隻近い船で編成されています。捕鯨母船は、鯨の解体作業や鯨油の保存、捕鯨船への燃料供給など船団の中核的な業務を担います。 写真は、日本水産に提供していただいたもので、図南丸が鯨を曳いている貴重な写真です。右上の船は、図南丸で解体した鯨を運ぶ船です。カラーの写真は、キャッチャーボートを従えて南氷洋を航行する図南丸です。 私が図南丸について調べ始めて暗中模索していた頃、この二枚の写真を日本水産に提供していただきました … [続きを読む] |
相生を写した写真を一枚だけ選ぶとしたら、私は、迷わずこの写真を選びます。昭和26年10月18日、相生湾から南氷洋に向かう日本水産の捕鯨母船「図南丸となんまる」。平井漠先生は「この日、岸壁には市民が立ち並び、また小船を出して日の丸の旗を振りながら壮途を祝し、別れを惜しんだ。」と述べています。 幼い頃に聞いた「図南丸が入ったよ」という大人たちの弾んだ声の記憶と、平井先生の写真集に掲載されているこの写真をもとに、私は、図南丸について調べ始めました。 そして、この日、大阪へ向かう図南丸に祖父と祖母が乗っていたことを知ります。こうして、この写真 … [続きを読む] |
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