ドロドロと手洗いのイタチごっこ的悪夢のロクロ作業が一段落する。 陶芸と言えば日がな一日ロクロを回しているみたいに思われているようだが、私のロクロはすぐ終わる。 ロクロ座までの接近の道は百億光年ほども遠いが、ロクロから離れるのは超光速やね。 私の場合ロクロはあまり重要ではないのだ。 とはいえ基本的に一品製作なので、まったくうっかり作ってしまっても良いというものでもないが、しっかりした完成イメージに囚われてしまっても良くないね。 たとえば彫刻家が材料の石や木を準備するのと同じくらいの意味合いって言う感じかな。 今まさに現れ来つつあるものが次に為すべきことをアフォードしてくれる。 イメージからは真の開始はできないものだよ。 2~3日すればベトベトの素地が少し乾いてくる。 手にベタつかなくなってからが本来の仕事になるのだ。 ロクロでわりとテキトーに挽かれた素材から〝かたち〟を発見する。 というか、〝かたち〟が生成してくるのを発見するんだね。 知らん人が多いけど、制作とは徹頭徹尾生成の過程なのだよ。 生成の過程に発見がある。 発見の過程にも発見がある。 そやから制作とは生成の発見の過程なんだな。 終わりのない生成と発見の過程なんだ。 生成てなんや、て? それはね、「葦牙(あしかび)の萌えあがるが如く成る」ものと古事記で言っているようなことやと思うよ。 よけいわからへんねぇ。 ま、いいか。 それはともかく 「目的的な制作は過程を見落とす」 (by クロノ)なんやわ。 肝に銘ずべしやね。 そんなわけでベタつかなくなった素地の上を私の目と手は遊牧民的なさすらいを始める。 さすらいながらナイフで削ったり粘土をくっつけたりする。 削ったりくっつけたりしながらさらにさすらいをつづける。 このときの粘土はしっとり湿り気を帯びて生気を放ちとても美しい。 一連の作業の中でこの時の粘土はもっとも美しい。 素地の上をさすらう私の目も手も愛に満ちている。 有限の作品の上をこの上ない優しさで永遠にさすらうのだ。 ◎用語解説
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