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2010年09月08日(水) 

北斗の拳」原作:武論尊、作画:原哲夫より ケンシロー


 

地塗りばかりしていた。
できあがったキャンバスは私を満足させた。
そこに絵の具のシミを置くことはなぜかとても惜しい気がしてい た。

 

地塗りされたキャンバスは〝絵〟ではない。
〝絵〟ではないがもうすでに、つまり原記号態的に〝ほとんど〟絵な のだ。 脚注1

それは無造作に放り出されただけの陶土がも うすでに、つまり原記号態的にほとんど陶芸なのと同じだ。
だから絵の具の小さなシミでもあれば、もう〝絵〟として読み取られてしまいかねないのだ。
粘土なんてあっけなく餌食になってしまう。
たとえそれが棄却としてなされたとしても、オーディエンスのみならず、作者の側でももうすでに、つまり原記号態的にほとんど〝作品〟だったはずなのだ。

真っ白いキャンバスはイメージのクリシェで埋め尽くされている。脚注2
だから絵の具のシミ一つで意味へ、ドクサへと成り下がってしまうのだ。 脚注3

真に開始するには真っ白いキャンバスを埋め尽くすイメージのクリシェを払いのけなければならない。

しかし、一連の〝美〟の棄却ムーブメントが、すべて美に組み込まれてしまったよ うに、イメージの類似性は後からすぐに追いつくだろう。

 

どのような制作にも、その大小多寡強弱の差異はあれど棄却は存在する。

なぜ〝作品〟や〝美〟を棄却し なくてはならなかったのか?

そこには〝作品〟や〝美〟の発生に関する秘密があるのではないか。

その秘密とは、あまりにも根源的であるがゆえに、そしてまたきわめて単純明快であるがゆえに、文化と言ういろとりどりの霞に遮られて私たちの目には触れなくなってしまっているのではないだろうか。

それはこういうことだ。

もうすでに、つまり原記号態的 にほとんど〝作品〟な様態は、常に作品に先行しその成立を準備している。

しかもそれは同時に作品を貫通していて、当の作品を否定したりはみ出したりしているのだ。

 

〝作品〟や〝美〟を棄却しなくては見えてこないものがある。
〝作品〟や〝美〟の正体は根源的臆見としての言葉なのではないか。
あらゆるものが 言葉の霞で覆われているのではないか。
ゲージツカはその霞を振り払い、世界の姿を露わにしようとする衝動に大小多寡強弱の差異はあれどただ突き動かされているだけではないか。

そしてもうすでに、つまり原記号態的にほとんど〝作品〟な様態は、言葉を乗り超えるパルマコンでもあるのでは ないか。 脚注4

 

だが露わな世界は荒野にも見 える。

なぜそんな世界がゲージツと関わりがあるのだろう?
それはその露わな世界こそが私たちの生命活動全般の〝地〟であるからで はないか。
私たちが習慣的・文化的に〝作品〟や〝美〟だと思っている〝こと〟の外部に、つまりそれらをも包含してまったく異なる次元の〝作品〟や 〝美〟の〝場〟があるのではないか。
そこからすべてが現成してくる〝地〟としてのゲージツが。

作品以前の、内外・主客分離以前の、 新生児にとっての身体のような。

ゲージツカはそのような〝地〟と無意識を通じて深く関わっているのだ。
そのような作品は己の生ま れ来たった〝地〟の痕跡を含んでいて無差異=無価値である。
作品の前に立つ者を鷲づかみにして〝地〟の世界へと連れ去ってしまうのだ。

あ らゆる概念的同一性を逃れ去る、そんな場なき場へ。

 

地塗りばかりしておいた。

お前はもう 生物・生理学的物質性でありながらすでに社会的であるという異質的矛盾に貫かれている。

 

 

pharmakos

 


脚注

  • 1:原記号態semiotique 言語として 明確に意味が分節される前の、衝動や欲動の流れがせめぎ合う場とでも言ったもの。ただし、すでになんらかの非表現的な文節が生じている
  • 2:クリシェcliche決まり文句。常套句。
  • 3:ドクサ:doxa 臆見
  • 4:パルマコン:pharmakon 「薬」と「毒」の両義をもつ語。

閲覧数380 カテゴリ★ポロリ・タラリ・ピロリズム  連載中! 投稿日時2010/09/08 21:56
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