「北斗の拳」原作:武論尊、作画:原哲夫より ケンシロー
地塗りばかりしていた。
地塗りされたキャンバスは〝絵〟ではない。 それは無造作に放り出されただけの陶土がも うすでに、つまり原記号態的にほとんど陶芸なのと同じだ。 真っ白いキャンバスはイメージのクリシェで埋め尽くされている。脚注2 真に開始するには真っ白いキャンバスを埋め尽くすイメージのクリシェを払いのけなければならない。 しかし、一連の〝美〟の棄却ムーブメントが、すべて美に組み込まれてしまったよ うに、イメージの類似性は後からすぐに追いつくだろう。
どのような制作にも、その大小多寡強弱の差異はあれど棄却は存在する。 なぜ〝作品〟や〝美〟を棄却し なくてはならなかったのか? そこには〝作品〟や〝美〟の発生に関する秘密があるのではないか。 その秘密とは、あまりにも根源的であるがゆえに、そしてまたきわめて単純明快であるがゆえに、文化と言ういろとりどりの霞に遮られて私たちの目には触れなくなってしまっているのではないだろうか。 それはこういうことだ。 もうすでに、つまり原記号態的 にほとんど〝作品〟な様態は、常に作品に先行しその成立を準備している。 しかもそれは同時に作品を貫通していて、当の作品を否定したりはみ出したりしているのだ。
〝作品〟や〝美〟を棄却しなくては見えてこないものがある。 そしてもうすでに、つまり原記号態的にほとんど〝作品〟な様態は、言葉を乗り超えるパルマコンでもあるのでは ないか。 脚注4
だが露わな世界は荒野にも見 える。 なぜそんな世界がゲージツと関わりがあるのだろう? 作品以前の、内外・主客分離以前の、 新生児にとっての身体のような。 あ らゆる概念的同一性を逃れ去る、そんな場なき場へ。
地塗りばかりしておいた。 お前はもう 生物・生理学的物質性でありながらすでに社会的であるという異質的矛盾に貫かれている。
pharmakos
脚注
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