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2010年09月08日(水) 

 土の形-2

 

 

 

たまたま見た語学のTV番組。
名前は忘れたがある日本のクラリネット奏者がドイツの名手のもとに弟子に行った。

技術を磨くために血眼になっていた。

〈こんなに上手なのにまだなにか足らないのだろうか?〉

巨大化していくプライドと連れ添うように募る不満。

ある時、見かねた師の一言が彼の転回点となった。

その言葉とは
「君はただクラリネットが上手になるためにここに来たのかね?
そうではないだろう。

君は〝音楽〟をするためにクラリネットを学びに来たのではなかったのかね?

ならば君が学ぶべきことは

〝Du must frei sei. ドゥ ムスト フライ ザイ〟自由でありなさい。だ」

私の個展に遊びに来た友人(女性ピアニスト)が同じような経験を話してくれた。

ピアノの技術を磨くべくイタリアでレッスンを受けていたとき、先生から言われた一言で目が開いたと。

それは
「あなたはなんて素早く上手に指が動くの!

そんなに弾けるのになぜ〝音楽〟をやらないの?」

!!!

「芸術はわれわれを軽くするものだ。」とニーチェが言っている。
我が国では作る人も見る人をも重くするのが「芸術」みたいに見えるね。

同じゲージュツなのに本質的に別物になってしまっているのだ。

まるで〝Frei sei!自由であれ!〟の精神と逆行することが「芸術」みたいにね。

私たちはいとも簡単に〝至高であるかのごとく振る舞うニセの審級〟に隷従してしまう。

創造の能動性を、おとなしく〝評価してもらう〟受動的なものへと矮小化する。

アドリブで踊らなくてはならぬせっかくの場面で、紋切り型の盆踊りを踊ろうとする。

あげくにダンスどころか重々しい権威の石組みの一つの石になりたがる。

 

〝ゲージュツ〟をするためにゲージュツカになったのではなかったのか。

ならばなぜ〝ゲージュツ〟をしないのだ?

修行がもしかして厳しいものであったとしても、それは自由で軽やかなステップを制作というダンスで踏めるようになるためのもの。

努力をしているという意識があると言うことは、すでに最初の入り口で入り方を間違えてしてしまったんだね。

ちなみに私は努力をしたことがない。脚注1

作品は絶えずあふれ出してくる。

そしてあふれ出した作品は絶えず他に生成する。

それが楽しくて楽しくて寝る間も惜しくて具合が悪くなるほど創り続けてきただけだ。

一生修行と言っても、それは悦びに満ちた楽しい一生なのだよ。
Du must frei sei. 自由であれ。」

それは母なるコーラ(chora)の懐、生成の無垢への帰還なのだ。脚注2

 


 

 


脚注

  • 1:「だからいつまでもパッとしないのだ」と思われているむきもあるような気もするが…。まあ、私の知ったこっちゃない。
  • 2:chora コーラ  プラトン『ティマイオス』に出てくる言葉。母=器としての準備を整え、あらゆる種類のものを受容するために姿形を持たない。 

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画像「土の形」は制作過程にある生の土の状態です。

 


閲覧数644 カテゴリ★ポロリ・タラリ・ピロリズム  連載中! 投稿日時2010/09/08 22:00
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