海外に住んでいると、日本で何か大きな災害が起きてもTVや新聞で直接日本語の報道を目にすることは少なく、ネットでの情報もどうもはっきりしないので、ぎょっとして敏感に反応することがない。 弁解がましいが、私のような過剰反応型にはそれは必ずしも悪いことではない。 また普段はあっさり淡泊なわりに中身はしつこいところがあるので、記憶には長くとどまっていて人が忘れたころに自分の出番を見る傾向がある。 それで東日本大震災の、特に宮城県の被災者の現在について、先月の5年目の追悼行事が終わって後からしきりに考えていたのだが、そこへ熊本県の地震の報。 例によってどうも実感がわかず、ひょこむの皆さんのような緊迫感のある反応ができない。 同じ日本国民なのに遠くにいるせいか、ある意味では、世界中で起きている地震の一つという捉え方をしてしまう。 それで「日本列島は地震列島だから、この現実と共に生きていくほかないですね」みたいなコメントをして、ずいぶん冷たい人間と思われていることだろう。 しかし災害の大きかった地域の写真をネットで見て、今更のように日本の地理的・地学的特性と、それらに起因するリスクを思わずにいられなかった。 地震学というのがあるが、これはいろんな学問のうちでも最も遅れている分野ではないかと思う。少なくとも現実の効用という点で。 同じ地球物理学に属する分野でも気象学や測地学はかなりの進歩を遂げ、今では欧州先進国に関する限り天気予報の当たる確率はかなり高くなった。これは衛星のおかげだ。 一方、地震学に関しては、まともな予想や警報を期待することが今でも難しい。 この点は火山学も多少似ているが、こちらは数日前なら予測可能になっているし、被害も地震ほどではないから、「専門家は何をしとる!」と立腹されることも少ない。 地震学に熱心なのは当然ながら地震が頻発する国だ。 だけど日本や米国がいくら大規模予算をつぎ込んでも、地球の中心にゾンデやなんかを注入してその不審な挙動(?)を調べることもできず、ここ数十年大流行のシミュレーションだって、諸般の事情(といっても詳細は分からないが)で出来ることには限界がある。 と、まあ、これはド・シロウトの慨嘆であるが、だからといって私も運命主義者でいるわけにはいかない。いずれまた日本に住むことになるかもしれず、そのための家だって準備してあるのだから。 ろれちゃんがブログへの私のコメントへのレスに(地震が日本に多いのは昔からだけれど)「だんだんその周期が縮んできたように思います。阪神淡路から20年、東北大震災から5年ですものね」と書いておられたことから、確かにそういう感じがすると、日本と世界の大地震の規模とその時期について調べてみた。 戦後の日本の地震で死者数が三桁のケースを拾ってみると、60年代から80年代にかけては10年に1件で、90年代になって少し増え、最大規模の被害が例の神戸地震。死者の数は6437とまさに桁違いだ。そして21世紀に入ってから東日本大震災。 ということは、環太平洋造山帯の、いわゆるRing of Fire(炎の輪)のうちの、特に日本の部分で、ここ数十年地殻活動が活発化しているということか。 この種の動きにはどうも周期があるらしく、とすると私たち現在の日本人は間の悪い時期にこの国に生まれ合わせたことになる。 もっとも、活発化している部分がぴったり日本列島と重なるわけではなく、台湾も以前より頻繁に地震に見舞われているし、フィリピン、インドネシアも火山の動きが不穏、さらにはニュージーランドまで。 中国は17世紀の百年間に数万人の死者を出した地震を6度経験しているから、この時期が中国にとって『地震の世紀』ということになるかもしれない。 とはいえその後が穏やかだったわけでなはなく、40年前には24万2千人が命を落とすという、多分中国人にとっては「この世の終わり」と思われたほどの悲劇があった。 それに、ぐるりの「輪」でなしに「炎の帯」のようなものが、西アジアから中近東とコーカサス地方を通ってバルカン半島、ギリシア、イタリアにまで延びている。 かのギリシアはともかく、ポンペイ噴火などで昔から地震は珍しくなかったイタリアで地震学が顧みられないのは、運を天に任せるのが好きな、といって悪ければ、考えても仕方ないことは考えずにいられる国民性のためか。 良し悪しは別として、ちょっとでもリスクがあるとなるとヒステリックとも言える反応をして原発停止を決めたドイツやスイスと何という違いだろう。 特にスイスには火山らしきものはなく(国境を越えたドイツ側に休火山がぽつぽつあるが)、地盤が花崗岩で超強固なスイスの、厳密な設計書100%遵守の原発で、地震に因る災害が生じる可能性は無視してもよいほど小さいのに。 ドイツはちょっと違う。フランスとの境界を成すライン川に沿って断層がある。 現に私がこちらに来てまもなく二度ほど地震があって、一度は壁にかけた絵が落ちてガラスが割れた。 最初に地震と感じたのは私で、他の人は訳が分からず、それだけにひどいパニックだった。 ライン川沿いにはフランスの老朽化した原発があってそれはかなり危険要素を孕んでおり、このあたりの人は、事故が起きたら車で東のオーストリアの方向に逃げると言っている。 いや、それよりも日本の場合。何しろ自分自身の国だから、心配の程度はドイツなどの比ではない。 今から5年ほど前、東日本大震災とは関係なく私は関東の知り合いの建築家に四国の家の耐震性を診断してもらい、その助言に従って必要な措置を講じた。 だからと言って安心しているわけではなく、中国四川省地震級のに襲われたら、いくら可能な近代技術を駆使したところで逃れるすべは全くない。実際、南海トラフがどうのこうのとここ数年は学者と当局にさんざん脅され、村中で避難訓練に明け暮れているらしい。 しかしその時、診断が一通り終わったあとの専門家二人の質問に、ちょっと考えさせられるところがあった。 建築家たちは家の古さよりも村の古さに関心を示した。 私が、村の中心に長曾我部元親に滅ぼされた領主の城跡があること、今もそこに山之内家の家老五藤家の別宅があることを説明すると、ほう、それなら昔から比較的安全な土地柄なんですね、という。 そういえば、私の村は祖父母の話を聞いても台風や地震の災害にほとんどあったことがない。三方が山で一方が海だが、海岸からは3、4キロ離れ、土地も北に向けて上り坂になっている。 三陸沖のような津波は別として、並みの津波であれば被害はなさそうだ。また山までもだいぶ距離があるので、山崩れの恐れもない。 だからこそ城を築いたわけか。(もっとも、かの熊本城も破損を免れなかったが。) 終戦後のまもなくの南海地震の被害も最小限で済んだ。 古くから人の住んできたところは、先人が経験からある程度その安全度を確認していたといえる。 都会などでは土地の格・柄というものがあるが、これは単に見栄や見てくれではなく、災害に対する耐性が重要な要素で、そのために山の手は土地価格が高いのだろう。 神戸地震の際に、当時たまたま芦屋のマンションに住んでいた友人に安否を問う電話をすると、その地域は全くといっていいほど被害がなく「天然災害に関してさえ貧富の差がでるものなのね」と関西に疎い彼女が驚いていた。 気持ちのいい話ではないが、事実だから仕方がない。 もちろん田舎ではそんな「格」など話題にならず、土地価格にそれが反映されることもなく、私も質問を受けるまで村の古さと先祖たちの知恵について考えたことはなかった。 それに比しての新しい人工の土地の危うさが今更のように実感され、開発業者の口車に乗ってはいけないと改めて思う。 熊本の被災地区の写真を見て、家屋の崩壊は震度のせいもあるだろうが、それらの地区の地盤・地質や地形、地理的特徴も大きな要因ではないかと思った。 過疎の進みつつある日本の村落には、地震など災害の見地からは比較的しっかりしていて「お勧め」の土地もあるのではないか。 以前に建設会社の人から、埋め立て地の建設作業は「豆腐の上に家を建てるみたいなものです」と聞いたことがある。おお、こわ。 日本には現代人から見捨てられつつある地域が多いけれど、地盤の安定性、二次被害の確率性の低さ等の観点からぜひそれらを見直してほしいものだ。 (これを書いている今、エクアドルの地震で230余人が死亡とテレビが報じている。ここも地震大国、おまけに災害への防備体制ができていない。GDP一人当たりの額はかつての宗主国スペインの3分の1。出稼ぎ国だそうだ。) ・写真の2枚目の地図で、赤い点は震央、青い点は死者のでたところ。 |