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2017年04月04日(火) 
昨日の南総の寅次郎さんのブログに、あるお知り合いの方が昔ひどい目に合わされた(という表現が適切かどうか分からないが)人物にはからずも出くわしたときの怒りが記されていた。

私にはその方の激しい義憤の根源については知るべくもないが、自分が年とってから特に、恨みや怒りや憎悪というのは実に厄介な感情だなあ、と痛感するとともに、それが好ましくないからといって無理やり抑えたり、自分に寛容を強いるのも不自然という気がしていた。

それでそんな趣旨のコメントを書いのだが、どうも寅次郎さんの言われるケースには当てはまらないトンチンカンな見解だったと分かって、失礼を承知で一部は削除させていただいた。

で、そのあと寅次郎さんの今回のケースとはまったく別に、人間の諸々の心情を考えていて、トルストイの有名な言葉を思い出した。小説アンナ・カレーニナは次のような文章で始まる。

「幸せな家族は皆一様に似通っているが、不幸な家族はみなそれぞれに不幸である」

これはそのまま、個々の人間の幸・不幸にもいえることではないか、と気が付いたのだった。

人間の幸せはどれも似通っているが、不幸にはいろんな形がある。そして、愛情というものは母子の間でも恋人の間でもみなどこか共通しているけれど、憎しみや恨みは多種多様なのではないか。

だから幸せいっぱいの新婚夫婦には、月並みに「おめでとう、良かったね」と言えばいい一方で、争いを重ね憎み合って別れた元夫婦にはうっかり慰めの言葉などかけられない。

ドイツでは非常に離婚率が高いので、親しくなるとその前夫・前妻について、ときには微に入り細にわたり恨み辛みを聞かされることがある。彼らだって新婚時代は幸せだったはずなのに、そのことには触れない。

こう思い当ったのは、実はしばらく前にある本を読んでいて、そこに引用されている日記の内容に関しての著者の評に深く頷くものがあったからである。

その作家は、「日記というものはその性質上、幸せや喜びを書くときはあっさりと抽象的に済ませる一方で、悲しみや苦悩を書く場合には具体的で詳しいものになるから、書かれたことをそのまま鵜呑みにせず、差し引いて考える必要がある」と言っている。

私は日記なるものは(小学校の夏休みの宿題を除いて)書いたことはないが、成人して自分の妹と昔の話になった時、殊に母親についての恨みや憤激は延々尽きることがない、という状況になることがしばしばだったので、この作家の言っていることはよく分かるのである。

つまり、日記という書きものではなく普通の会話の場合であっても、自分が抱く情愛や好意は抽象的というか通り一遍の表現になり、嫌悪や苛立ちはえらく具体的になる。

私も妹も母親との確執は激しかったが(ただ、二人とも決して親を邪険には扱わなかった)、最近新刊書の紹介を見ていて、母親、特に老いた女親に悩まされている娘の自伝の類が溢れていることに驚いた。

そして世の中に母親のことで苦しんできた人がこんなにいたのかと、この現象についても考えさせられた。「毒親」という表現まで用いられているのは、さすがの私にもショックだった。

面白いのは、この場合にも問題の母親というのが実に様々で、私たち姉妹の親には当てはまらないケースばかりだという点である。ここでも不幸や恨み(の根源)は「千差万別」なのだ。

もちろんいくつかのタイプに分類はできるのだが、細部になると違ってくる。だから、次から次へと「悩み・苦しみの記録」が出てくるのであろう。

こういう話は男性には分かりにくいかもしれない。それは女性との感性の違いや、人生における優先事項の差異に帰されることが多いが、もう一つ、女は男とは比較にならないほど密接に家族と関わらざるを得ないという事情がある。

男の場合は・・・いや、これについて語り始めると、また、わが父や実弟・義弟の親への態度を批判的に見てきた自分の経験から、微細な記述になるので止めておく。

一つだけ付言すると、夫としても父親としてもほぼ申し分のなかった私の父の、親に対する薄情さ(私の基準では)にだけは、今でも祖父母に代わって義憤の念を禁じ得ない。自分がまだ若すぎて、老いた二人のために何かができる状況ではなかっただけに、無念という思いもある。

そういう女をうるさいと疎んじる男性には、少なくともこれまでは、そういう女たち、つまり不満や怒りを募らせつつも親の面倒を見てきた既婚・未婚の娘たちによって、何とか家庭・家族が保たれてきたという事実を知ってほしい。

そして、その義務を果たしていく中で積もりに積もった怒りや恨みを何らかの形で吐きださずにはいられない、という女の気持ちにも、それこそ「寛容に」臨んでほしいと思う。

閲覧数470 カテゴリ日記 コメント20 投稿日時2017/04/04 04:20
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コメント(20)
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  • 2017/04/04 23:07
     何かコメントしたいと思って本文とお二人のやり取りを熟読したのですが、出る幕はなさそうです。で、次の一般論について。

    > 幸せはどれも似通っているが、不幸にはいろんな形がある。

     私は、自分のことを「幸せ」とも「不幸」だとも考えたことはありません。でも、お二人のやり取りを読んで「不幸」でないということは「幸せ」なのだと思えてきました。

     また言われそうですね。

    > いくつになってもお坊ちゃまなんだから。もう!

    と。;^^
    次項有
  • 2017/04/04 23:31
    > 南総の寅次郎さん

    お気にさわったらごめんなさい。寅さんはお幸せです。
    術後すぐだというのに飛び回っているし。元気なことはなによりです。
    次項有
  • 2017/04/05 08:04
    > くちべにがいさん
    > お気にさわったらごめんなさい。

     いえいえ。くちべにがいさんは、私にとって、賢く優しい姉さんみたいな存在です。窘(たしな)められると、なんとなくうれしい。
     いくつになっても甘えたい弟分をよろしくお願いします!^^

    > 若い人の精神障害も多いです。不登校、引きこもり・・・・

     新聞テレビでよく取り上げられますが、どうしても他人事にしか感じられない。でも、身近に感じられる人が話題にすると、そのテーマがぐっと近づいて来て、新聞テレビの読み方も変わってきます。
    次項有
  • 2017/04/04 23:34
    鉛筆ベッガさん
    > 南総の寅次郎さん
    私も幸せかと聞かれるとちょっと困るけど、不幸でもない。

    幸福度調査というのがあって「あなたは幸せですか」という質問に「はい」と答えた人、日本は50位以下とかなり低いですが、これ、設問の仕方を変えて「あなたは不幸ですか」と訊いてみたらどうでしょう。私たち同様に、別に不幸ではないという人はかなり多いと思います。

    幸せは実存感を奪う、と言った作家もいるし、幸せは退屈と言う人もいれば、幸せなんてあんな中途半端なもんヤダ!という声も聞いたことがあります。

    だから日本人も、手放しで「幸せ!」と言ってしまうことに抵抗があるんではないかしらん。

    万年お坊ちゃま。よろしいではありませんか。お坊ちゃまでいられるって、とても幸運なことです。ご自分では気がつかれないままに。
    次項有
  • 2017/04/05 09:08
    悲しい体験も、無事何とか乗り越えてきたときにはやっぱり体験出来て良かったと思えますね、私もガンや狭心症で何度も手術したけど終わってみると痛みを知ることによって人に優しくなれた気がします。
    知的障害の長男も赤ん坊(生後4か月)の時腎臓腫瘍で生きるか死ぬかの大手術をしたおかげかどうか、とても優しい性格です。
    昨日のテレビで競泳の瀬戸大也が登場し、「悪い事があってもポジティブに何でも考える」というので、「じゃあお財布落としたらどう思いますか?」と聞かれると、「あ、新しい財布が買えると考えます」と答えました。いくらお金が入ってたことは考えないで。そう考えながら生きたほうが楽しいですね。
    次項有
  • 2017/04/05 16:36
    鉛筆ベッガさん
    > ろれちゃんさん
    不幸に遭遇してそれを乗り越えた人って、どこか深みがありますね。人がらに味があるというか。

    いつも陽の当たる場所に生きて、気立てのいい人だっているけど、なんだかポワーンと甘いだけのお菓子みたいで詰まらないことも。

    私の親しい友人で不妊に悩み結局子どもができなかった人がいるんだけど、私が慰めのつもりで「私だって子どもはいないけど、それで不幸とは思ってないわ」と言ったら「だってあなたは、そういう状況に慣れているんでしょ。私はずっと、子ども産んで育てることが当たり前の人生と思ってたんだから」と言われてのけぞりました。

    おやまあ、不幸も慣れちゃうと平気でしょ、っていいたいの?

    いえ、彼女もともとすご~くスイートな人なんですよ。でも「どうにもならないこと」にぶつかったことで、彼女の人生に陰影が加わったみたい。
    次項有
  • 2017/04/07 09:04
    > ろれちゃんさん
    > 悲しい体験も、無事何とか乗り越えてきたときにはやっぱり体験出来て良かったと思えますね、

     社交ダンスやコンサート、俳句…何でも華麗にこなす才女と思い込んでいました。でも、言葉の端々に「芯の強さ」といったものも感じていたので納得です。

    > 「あ、新しい財布が買えると考えます」

     あ、それは無理です。例え小銭しか入ってなくても、悔しくて…夜も眠れないぐらいに。;^^
    次項有
  • 2017/04/05 22:44
    人生いろいろ。
    不幸なことがあったりして一時的に沈んでもそれを乗り越えた方、ってやっぱり素敵に生きていらっしゃいます。

    人生の先輩たちとこういう話はなかなかできないので貴重です。
    ありがとうございます。

    妹はネットが好きではないので携帯のアドレスしか知りません。
    きょうはグチメールが来なかった(笑)『携帯介護』ではできることが知れていますが、メールを待っていましょう。
    次項有
  • 2017/04/05 23:00
    鉛筆ベッガさん
    > くちべにがいさん
    お花、スミレですか。「菫ほどな小さき人に生まれたし」って漱石の句そのままに、小さい花。でも漱石は自分が大きかったから、そんな贅沢が言えたのでしょうけど。

    向日葵のようにでっかく咲きたい、と思っている人の方が多いでしょうね。

    スミレの花にも「距」があって、今寅次郎さんのブログ宅で話が弾んでいる「蜜腺」をその中にもっているんですよね。ちょっとお立ち寄りください、って人さまの家ですけど。
    次項有
  • 2017/04/07 08:41
    > くちべにがいさん
    > 妹はネットが好きではないので

     残念です。
     甘え人間の私は、賢くてしっかりものの姉御タイプが大好きです。構ってもらいたくて、毎日、知恵を絞っています。

    > ベッガさん

     呆れられても叱られても、嘲笑されてもめげませんよ。;^^
    次項有
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