昨日見た「ムーンライト」も私がこれまで知ってる範囲の不幸を超えた悲惨な環境は、子供の育つ環境として受け入れがたいものでした。
正に不幸の種類は沢山あり、それぞれの規模も世の中にはあるという事を知りました。それでも最後は人間っていいものだな~とホッとするラストでしたが。
昨日の南総の寅次郎さんのブログに、あるお知り合いの方が昔ひどい目に合わされた(という表現が適切かどうか分からないが)人物にはからずも出くわしたときの怒りが記されていた。 私にはその方の激しい義憤の根源については知るべくもないが、自分が年とってから特に、恨みや怒りや憎悪というのは実に厄介な感情だなあ、と痛感するとともに、それが好ましくないからといって無理やり抑えたり、自分に寛容を強いるのも不自然という気がしていた。 それでそんな趣旨のコメントを書いのだが、どうも寅次郎さんの言われるケースには当てはまらないトンチンカンな見解だったと分かって、失礼を承知で一部は削除させていただいた。 で、そのあと寅次郎さんの今回のケースとはまったく別に、人間の諸々の心情を考えていて、トルストイの有名な言葉を思い出した。小説アンナ・カレーニナは次のような文章で始まる。 「幸せな家族は皆一様に似通っているが、不幸な家族はみなそれぞれに不幸である」 これはそのまま、個々の人間の幸・不幸にもいえることではないか、と気が付いたのだった。 人間の幸せはどれも似通っているが、不幸にはいろんな形がある。そして、愛情というものは母子の間でも恋人の間でもみなどこか共通しているけれど、憎しみや恨みは多種多様なのではないか。 だから幸せいっぱいの新婚夫婦には、月並みに「おめでとう、良かったね」と言えばいい一方で、争いを重ね憎み合って別れた元夫婦にはうっかり慰めの言葉などかけられない。 ドイツでは非常に離婚率が高いので、親しくなるとその前夫・前妻について、ときには微に入り細にわたり恨み辛みを聞かされることがある。彼らだって新婚時代は幸せだったはずなのに、そのことには触れない。 こう思い当ったのは、実はしばらく前にある本を読んでいて、そこに引用されている日記の内容に関しての著者の評に深く頷くものがあったからである。 その作家は、「日記というものはその性質上、幸せや喜びを書くときはあっさりと抽象的に済ませる一方で、悲しみや苦悩を書く場合には具体的で詳しいものになるから、書かれたことをそのまま鵜呑みにせず、差し引いて考える必要がある」と言っている。 私は日記なるものは(小学校の夏休みの宿題を除いて)書いたことはないが、成人して自分の妹と昔の話になった時、殊に母親についての恨みや憤激は延々尽きることがない、という状況になることがしばしばだったので、この作家の言っていることはよく分かるのである。 つまり、日記という書きものではなく普通の会話の場合であっても、自分が抱く情愛や好意は抽象的というか通り一遍の表現になり、嫌悪や苛立ちはえらく具体的になる。 私も妹も母親との確執は激しかったが(ただ、二人とも決して親を邪険には扱わなかった)、最近新刊書の紹介を見ていて、母親、特に老いた女親に悩まされている娘の自伝の類が溢れていることに驚いた。 そして世の中に母親のことで苦しんできた人がこんなにいたのかと、この現象についても考えさせられた。「毒親」という表現まで用いられているのは、さすがの私にもショックだった。 面白いのは、この場合にも問題の母親というのが実に様々で、私たち姉妹の親には当てはまらないケースばかりだという点である。ここでも不幸や恨み(の根源)は「千差万別」なのだ。 もちろんいくつかのタイプに分類はできるのだが、細部になると違ってくる。だから、次から次へと「悩み・苦しみの記録」が出てくるのであろう。 こういう話は男性には分かりにくいかもしれない。それは女性との感性の違いや、人生における優先事項の差異に帰されることが多いが、もう一つ、女は男とは比較にならないほど密接に家族と関わらざるを得ないという事情がある。 男の場合は・・・いや、これについて語り始めると、また、わが父や実弟・義弟の親への態度を批判的に見てきた自分の経験から、微細な記述になるので止めておく。 一つだけ付言すると、夫としても父親としてもほぼ申し分のなかった私の父の、親に対する薄情さ(私の基準では)にだけは、今でも祖父母に代わって義憤の念を禁じ得ない。自分がまだ若すぎて、老いた二人のために何かができる状況ではなかっただけに、無念という思いもある。 そういう女をうるさいと疎んじる男性には、少なくともこれまでは、そういう女たち、つまり不満や怒りを募らせつつも親の面倒を見てきた既婚・未婚の娘たちによって、何とか家庭・家族が保たれてきたという事実を知ってほしい。 そして、その義務を果たしていく中で積もりに積もった怒りや恨みを何らかの形で吐きださずにはいられない、という女の気持ちにも、それこそ「寛容に」臨んでほしいと思う。 |