旧1万円札に部分が使われていた聖徳太子像(両脇に童子を従えた図)では、記憶は定かではありませんが、木靴を履いていたように思います。
わが家にある国宝・吉祥天女画像(薬師寺)の複製画でも、彼女は布製と見える靴を履いています。(添付画像)
ということは、少なくとも奈良時代には下駄は発明されていなかったと思われます。ただ庶民はどうだったかは分かりませんが。
「サボる」という言い方がある。これの語源はと聞くと大概の人はフランス語の「サボタ-ジュ」からでしょうと答えるから割と語源が知られている方だろう。 でも、それでは「サボ」ってなんのことか分かるかと聞くとほとんど知らない。 サボっていうのは木靴の事なんです。というとなんでなんでと、意外性があるから喜んで貰える。 工場の木靴を履いていた労働者たちが不満があると木靴を踏み鳴らして抗議したことから来ているんです。 板前さんが調理場で下駄を履いているけど、料理の手を抜くことを「ゲタる」とはいわない。でも下駄を踏みならしていると何となく心情が分かるところがある。 でも、韓国のソウルにある民族村で売っていた木靴には下駄の歯のように木靴に歯があった。もしも、これを踏みならしたりしたのが語源だったら、下駄は韓国語でナマクシンだから「怠ける」で合ってる。 私の家の門の内側には秦の始皇帝の兵馬俑の兵士のレプリカが置いてあります。 弩を持って片膝ついた兵士の像です。1/2の大きさとはいっても実物が2m近い大男のものですからかなりの大きさになります。 娘と西安に旅行したときに購入したものです。 道路に向かっておくと、子供達が怖がるので内側に向けて置いてあります。 このレプリカは精巧に出来ています。ひざを付いた兵士の足の裏を見ることができるのです。 その足には足袋の様なものをはいています、そして、その足袋の裏にはミシンで縫ったような横筋が何本も彫られています。 つまり、履き物に滑り止めの工夫がなされてるのです。 紀元前300年ほどの時期のものですから、その頃の最強の兵士が使っていた履き物でしょう。 ロ-マ時代でも映画などの時代考証では兵士は皮のサンダルのようなものをはいていています。 人類がいつから履き物をはくようになったかなんて大変なテ-マでお話しようとしているのではありません。 でも、日本の発明ではないかと思われる下駄についてならなんとか調べられそうです。 中国にも下駄は見あたりませんし、知人の中国人も知らないといっています。 韓国へ旅行したときに韓国の民族村が観光地になっていて、そこには古い韓国の民具などが売られていました。 そこで売られていたのは木靴でした。小さなサイズのものを買ってきましたが、この木靴はオランダのものと同じようなものでした。 いずれの国でも下駄は見つからないのです。 日本人の発明だとすれば物まね国家との汚名を晴らす良い例ともなろうかといささか張り切ります。 古さをたどってみると太平記を書いたとも言われる小島法師達は山伏集団だったともいわれていますが、この山伏達も下駄それも高下駄をはいているように描かれていますし、源平物語の牛若丸も五条の橋の上では下駄をはいて弁慶と戦っているように描かれています。 かなり古くから下駄はあったようです。もちろん、庶民はわらじなどを常用していたのでしょうから、下駄はある意味では特別なひとたちのものだったかもしれません。 田中与四郎(利休)さんの師匠の村田珠光は著書に客が茶室に入るときには庭石を下駄で来るのが良いと書いてあるそうです。 亭主が客の足音でその時々の気持ちを知ることができるからだというのが理由のようです。 今ではあまりそんな感じは致しませんが、下駄はなにか精神的なものを示す 象徴に使われたのかもしれません。 けがれのない物としてなら今でも板前さん達は厨房で下駄をはいていることが多いょうです。 水を使うからというのならゴム長でもよいのに下駄をはくのはやはりなにかありましょう。実際魚河岸のお兄ちゃんは大抵ゴム長をはいています。 下駄が日本独特の物ものかどうかについては現在の中国や韓国にないからといって日本の物とはいいきれません。 現代中国語では木(漢字が出ない尸の下に伎)とありますし、古典中国語には足下とあるそうでこれが足下-足駄-下駄と変化したとの説もあります。 木(尸伎)をキクツと読めばオランダ型や朝鮮の木靴を意味します。 でも、中国は漢字の国です。同じ靴でもその材料によりちゃんと字が作られているのです。 (尸復)は絹で作られた靴、(尸彳婁)は麻で、(革是)は皮でとちゃんと書き分けています。 (尸伎)はこれだけでも木製ですが、下駄なのか舟形をした薄いものもあったようですからル-ツについてはここまで追求できただけです。 日本最古の下駄の出土は登呂遺跡にあるそうで、田下駄であろうとされていますが、田で下駄を使用する場合は高下駄でなけれはあまり意味がなさそう です。 しかし、高下駄かそうでないかは別の意味でも大事なことになります。 下駄には歯があります。この歯を別の木材で作るか一つの木から掘り出すかの違いが生ずるのです。 この辺の所は木工技術や木材の性質などのいわゆる職人の腕による部分が多くなるので触れません。 日本で登呂遺跡より時代は下がりますが、大量の下駄の出土した遺跡があります。 本来、木材の遺物は残りにくいのですけど、ここのものはなんと下駄だけでもものすごい数が出土しています。 広島県の草戸千軒町遺跡です。河の中州にあったことから木製品の保存が良く、平安時代からのものが沢山出ています。 これを見ると、差し歯下駄も高下駄もちびて草履のようになったもの、素材もさまざまな木材で作られていたことが分かります。 当たり前な話なんですけど、寿司屋の符丁で三のことをゲタメといいますが、この下駄の鼻緒を付ける穴の位置がみんな同じなんです。 下駄は日本で発明されたかどうかは判定できませんでしたが、日本で発達をとげたのは間違いないでしょう。現在でも使われているのですから。 ここまでは書いて述べたことがあります。そのときは日本の発明ではないかとも思ったことがありますが、新しい事が見つかりました。 唐の詩人李白の詩に「長干 呉児の女 眉目 星月よりも艶なり 屐上(:げきじょう) 足は霜の如く」とあるそうで、 この屐の字はすでに3世紀の記録では「木で作った履き物で、二枚の歯をつけたもの」とあるそうです。 さらに先端の頭部が方形のものと丸いものがあり、男女の使い分けがあったそうです。 「泥水に良い」ともあったそうですから、田下駄でもあったことなんでしょう。 でも、なんでかいつからか中国では使われなくなっていたのです。 |