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2007年08月05日(日) 
呉越と南京の旅2
上海空港から上海駅まで一直線にタクシ-を飛ばしました。飛行
機はそれほどの遅れはなかったのですけど、一人で中国の列車に
乗るのは初めてですから早めに行かないと気持ちが落ち着きませ
ん。
駅は軟座車用の待合室があり、電光掲示板が列車の到着時間を掲
示していました。
なんと日本語も出るのです。この特急はいわゆる観光客用の列車
の様で外国人に実に親切になっていました。
5,6年前とは大きく様変わりしています。
四人掛けの座席の私の前には中年の女性が座りました。他の客は
いないようです。そして、通路をまたいだ隣の席には親子連れの
四人家族が座りました。
前の女性はセッセセッセと西瓜の種を口に運んでいます。話はし
ませんが、間違いなく中国人でしょう。
隣の家族連れは広東語で話しています。広東語はさっぱりわかり
ませんけど北京語と違うことは分かります。
列車の旅は行きずれの人との出会いがあり、そこから発展してそ
の地の人情やら新しい発見が出来るものです。けれど、無口な中
年女性と広東語の家族ではなかなか接点が見いだせません。
南京まで3時間をどう過ごすか、まずは免税品店で購入したグレ
ンフィデックのウイスキ-をチビリチビリと始めました。
すでに暗くなっている車窓からは点在する民家の灯りしか見えま
せん。
今回の旅として蘇州、南京を選んだわけは長江流域に興味があっ
たからであります。
私が世界史を習った頃は世界の四大文明発祥の地としてナイル・
エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明と大
河のほとりから文明が発達してきたと習った。
それは今でも誤りではないだろう。しかし、全ヨ-ロッパを合わ
せたよりも広大だとされる中国の文明が黄河流域にのみ発達し、
それが全土に普及していったと考えるのはあまりにも安易な考え
方ではないだろうか。
何度か中国を旅する内に現在でも中国の各地にはそれぞれの独立
した文化が残されていて、衣装、言葉、食べ物などが単に地方の
特色とか方言なんていういい方でかたずけられるものではなく、
○○文化とでも呼んだ方が相応しいほどの差異をみせておりまし
た。
中国の歴史のなかで三皇の蛇身の伏羲゛、女渦(女扁)、神農の頃
を除いて五帝の堯舜が天下を治めていたとされる時代から共工に
政治を任せた為に失敗し舜は共工を地方に流して北狄と呼び、
その仲間を追放して南蛮とし、反乱を起こた三苗を西戎に流し、
治水に失敗した鯀を羽山に幽閉して東夷としました。
これは史実かどうかは分かりません。中国は自分のところが中心
と考えますから四方の未開民族は自分達の都合の悪い人々が作っ
たと説明しているのでしょうが、元々これらの民族が地方には沢
山いたと解釈して良いでしょう。
やがて、三代の時代になります。三代とは夏、殷、周で夏と殷は
伝説上の国家だろうと考えられていましたけれど、殷墟が発掘さ
れたことにより殷は実際にあったことが確認されています。
夏の方はまだ夏墟が見つかっていない為に存在の有無について諸
説があります。
中国の山東省の歴史学者で殷周史の研究で業績をあげた傳斯年フシ
ネンは夏と殷は時間的に夏の後に殷と続いていたのとは違って、東
西に同時に存在していたのではないかとの「夷夏東西説」を出し
ています。(平成10年9月12日の産経新聞に上海の共同通信
発として、殷王朝初代の王、成湯王が築いた都、毫ハクが発掘され
たと報道していて、夏を殷が滅ぼした後の出城の役もしていたよ
うだとあり、この洛陽市郊外の遺跡から6キロの地点にある二里
頭遺跡が夏の都であるとの見解を中国社会学院考古研究所の杜金
副所長が述べている。
もっとも新聞ではこの説はまだまだ異論があるとも記載している。)
この説には私は大変興味があるのです。
黄河文明というが、同じ青海省を源にする黄河と長江(日本では
揚子江と呼ばれているが、この名前はこの長江の下流の江蘇省儀
征から楊州までの間を呼ぶほんの一部に過ぎない。)を比較する
と黄河5460キロに対して長江6300キロと遙かに長江の方
が長いし、流域面積も75万平方キロに対して180万平方キロ
と倍以上の面積を長江は持っている(理科年表による)。
黄河に起こった文明が長江に起こらなかったとはいささか考えに
くい。
文化面から二つの川の流域の比較をしてみると、まず、字です。
白川静の「字通」で河を引くとこの字一つで黄河を意味している
し、江を引くと長江なのです。日本では河も江も大きさくらいの
違いにしか考えていませんけれど、中国では一つの川の固有名詞
になっているんです。
ですから、北の方の黄河の支流に当たる川は河の字が当てられて
おり、南の長江の支流は江の字が当てられていることが多いので
す。
河はモンゴル語の川を意味する「yool」から来ているのに対
して江はモンクメ-ル語の川の「kroung」に起源をもつと
されていますから全然別の言葉でもあるのです。
日本で言う川は中国では水の字を使うことが多いようです。
川はセンの発音で穿の字と同じですから谷川の湧き水などのイ
メ-ジがあるのでしょうか。
言葉でも「南船北馬」は大概の方がご存じでしょう。この他にも
北と南を分ける言葉は沢山あります。
「南糸北皮」、「南道北儒」、「南稲北粟」、「南巣北穴」また、「麺好
人」、「飯好人」等といういい方もあります。
北の方は米が取れないので麺を好むし、南の人は米の飯を好むと
いうのです。
中華料理にカニタマを使う料理がありますよね。ご飯に掛けたの
を「天津飯」と呼びます。そして、麺に掛けたのを「天津麺」と
いいます。
「生炒牛肉飯」も麺に載せれば「生炒牛肉麺」になるのでどちら
が好きかによって選択できるのもこうした南と北の文化の違いに
もよりましょう。
河と江だけでなく同じ意味なのに幾つかの字が存在しています。
否定の言葉の「非や否」が北でよく使われ、南では「没や莫」が
よく使われます。
歯と牙も同じなのに別の字が存在します。目と眼もそうです。
私は眼科なのでこの目と眼の区別を日本流に解釈して来ました。
目の字はノコギリの目とかタタミの目などの時に使う目であって、
眼の方は目に限の旁が付いているから眼に限るという意味で動物
の眼などものを見る臓器としての眼に限って使うと解釈していま
した。
仏教の用語で心眼をシンゲンと読みます。シンガンではなくシン
ゲンなのです。
これは仏教用語は呉音で発音するきまりになっていますからかっ
て眼をゲンと読んでいた名残です。
すると眼は南の言葉なのでしょうか。目の方をこれまた「字通」
で見ますと、象形文字で「瞳子を重ねるなり」とあって「重瞳子」
をいうとある。
「重瞳子」とは舜が瞳が二つあったとされており「史記」には項
羽もそうで舜の末裔かとも称されたそうです。
医学的には瞳が二つと言うのは「瞳孔膜遺残」として知られてい
る胎生期に消失して丸い瞳孔を作るはずの瞳孔膜が残ってしまい
二つの瞳孔があるように見えるタイプの眼の発生異常です。
中国は死後の世界や神の世界にはこの世の常の動物や通常の状態
ではない奇の生き物などが住んでいると想像していました。
ですから龍や麒麟、鳳凰などの想像上の奇なる動物を作り出して
いました。
瞳が二つあると言うのはまさしく奇であります。私は眼科医にな
って三十数年からになります。この間に瞳が完全に二つに見える
形の瞳孔膜遺残は2,3例しか見ていません。
眼は呪詛や邪視などの意味もあったようですから、北と南で使い
方が違っていたのかもしれません。
秦が中国を統一してからはこの様な違いは少なくなってはいまし
ょうが、まあその匂いのほんの少しでも嗅いでみたかったのです。
1時間ほど過ぎた頃、隣の広東語の家族から「ネエ」という声と
「ナンダ」という父親の声が聞こえてきました。
ネエはともかくナンダは広東語にもないはずです。日本語の様に
も聞こえました。
少し酔いも回っていましたから思い切って北京語で「あなた達は
どちらから来られましたか?(ニイメンナ-リライラ?)」と聞きましたら、
なんと日本語で「日本からです」と答えます。
すかさず、正面の中年女性も「私も日本からです」と日本語でい
います。
なんだい、なんだい。みんな日本語が分かるんじゃないか。
それからは堰切った様に日本語での会話がはじまりました。
中年女性は蘇州のセメント会社から会社の費用で毎年日本に行っ
ているそうです。南京の帰りに蘇州に寄る予定ですし、友人の李
さんもセメント会社に勤めていますから○○水泥公司と聞きまし
たが、別の会社のようでした。
家族連れの方は親父さんが香港から日本に来て苦労して医者にな
り、群馬県で開業しているそうです。奥さんも香港人なので二人
の子供も家族内では広東語で話すことが多いそうです。
年齢は私と同じでした。面白いことにこの先生は香港には何度も
行くのに中国本土は初めてだそうです。
北京語に少し自信がないからだそうだ。なるほどこういうケ-ス
もあるんですね。
この南京行き特急軟座車は観光客専用列車みたいなものだから東
洋系の顔をしていたら半分くらいは日本語が通じるようだ。
列車が南京駅に到着したのは現地時間8時30分の定刻だった。
しかし、日本時間と中国の間には1時間の時差があるから日本時間
では9時30分となる。
直行してきた身としては酔いもありそのままホテルでバタング-と
なった。

閲覧数3,764 カテゴリオメメの教養講座 コメント1 投稿日時2007/08/05 23:44
公開範囲外部公開
コメント(1)
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  • 2007/08/06 09:35
    香港には8度行きましたが、本土はまだ行ったことがありません。
     蘇州刺繍の名人を招待して、実演をして頂いたことがあります。
     中国の留学生からもぜひとの声を聞き、一度チャレンジをと考えています。
     広大な中国で、三国志に思いを馳せてみたいですね。
     
    次項有
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