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2008年08月09日(土) 
昨日の矢リンピックの開会式で、大きな櫂を沢山使った男性が
船を漕ぐシ-ンがありました。これは海のシルクロ-ドをモチ-フにしたもので、私は十数年前にこの海のシルクロ-ドの始まりの地に旅行したことがあります。
その旅行記の一部をアップします。いささか長文ですが、この機会に海のシルクロ-ドも知っておいてください。

元の時代の景徳鎮に誕生した青花磁器について、その顔料のコバルトをスペクトル分析にかけて調べた結果、この顔料が現在のイラクの首都バクダ-トの北およそ100kmの所にある、古都サ-マッラ-の近郊とまで判明している。
だから明の時代にはもうこの顔料の所在も入手方法も分かっていたことだろう。
そうなると永楽帝が鄭和に命じてこの通商路を確保し、税収を上げるのと明の威信を示そうとしたのも不思議ではない。
今回の旅行はマルコポ-ロが帰った港を見たいと言うのが動機だったから、船についてもいささか調べてあります。
まず「ノアの箱船」の大きさですが、旧約聖書創世記六章十五に長さ300キュビット(140m)、幅50キュビット(23m)、高さ30キュビット(14m)と記載されている。
これを元に計算してみると、箱船は2万4千トン級の船であったと推定されます。
聖書には載っていないが、これに地上に住むあらゆる動物を乗せたとなっており、恐竜は赤ん坊をひとつがい乗せたし、昆虫もシロアリは船の中央に乗せたとされています。
余談はともかく、コロンブスの旗船サンタ・マリア号は図面は残っていませんが、同型のビンタ号などの推定からすると、長さ23.9m、幅7.9m、喫水1.9mとされていますから、80トン位の船だったのでしょう。
これに対して、鄭和の率いた明の大船団の船を調べてみると、一番大きな宝船と呼ばれる船は9本マストで長さ140.7m、幅57.6mで約3100トンと推定されています。 
優にノアの箱船を越える大きさなんです。ここで示したトン数は同一の人物が推定したのではありませんから、ノアの箱船は2万4千トンと推定されているのに宝船は長さも幅も大きいのに3100トンですからどこか推定方法に間違いがあるのでしょう。
この船団の貨物船であり貿易の為の馬を運んだ馬船でも長さ117m、幅44mなんですから凄いものです。
中国は秦の始皇帝の頃より馬には苦労していました。秦の始皇帝も馬を扱う集団の出身だから馬に強い者が戦争に勝つ歴史がありました。
始皇帝の兵馬俑に埋葬されている実物の1/2に作られた四頭立ての戦車の馬をよく見ると、外側の二頭は胸の筋肉の付き具合から、牽引力の強い馬が使われ中の二頭は足の筋肉からスピ-ドのある馬が使われていることが専門家から指摘されています。
ここまで微妙に馬の使い方をしていたと言うことは、馬にばらつきもあったのだろうが、いわゆる馬力に依存していた部分も大きかったのでありましょう。
駟驂の字を見ても分かるように、駟は四頭立てで、驂は三頭立てですからこんな字まで作る入れ込みようです。
司馬と言うのは軍馬を司る役職名でもあり、その重要性から位は高いものでした。
宦官の司馬遷が紀元前91年頃に完成させた。「史記」の大苑国伝(ウズペクスタンの近くか)に「善馬多く、馬、血を汗にす。その先は天馬の子なり。」とあり。これがいわゆる汗血馬と呼ばれ中国では古くから名馬としての需要は多かったのであります。
地図を見れば分かりますが、ウズペキスタンはシルクロ-ドの天山北路を通り、タクラマカン砂漠(タクラマカンとはウイグル語で入ったら出られないと言う意味だ。)を越えなければならない。
いかな名馬といえどもこれだけの距離の輸送は大変だったに違いない。
だからわざわざ馬船と名付けて船による馬の輸送も実際にはあったことだろう。
馬は日本産の木曽馬は平均馬高が130cm位であったことが、新田義貞の鎌倉攻めの時の発掘された人馬の骨からわかっている。
大体、源の義経の有名なひよどり越えの奇襲のときに馬がかわいそうだと馬を背負って降りた畑山重忠の怪力にしても、現在のサラブレットの様に体高160cm馬体重が600kgにもなっていてはとても背負えるものではないだろう。
ちなみにこの時の義経の愛馬「青海波」は体高が7寸と言うから142cmで当時としては立派な名馬であったのでしょう。
奥州馬がすでに知られていたのは、シベリア経由で凍結した海などを渡ってきた馬がいたのでしょうか。
アレキサンダ-大王の愛馬「ブケファルス」も記録はないが優に150cmは越えていたことでしょう。
「ブケファルス」と言う名はヨ-ロッパ諸国の娼婦の源氏名として最も多く残っていたそうですから、武人だけが名馬を求めたのではないかもしれませんが、軍人が特に優秀な馬を求めたのは洋の東西を問わないのでありましょう。
明治天皇の愛馬「金華山号」には有名なエピソ-ドがあります。
閲兵式の時に四角く盛り土をした上に乗馬して兵士達を閲兵しますが、その時左の後ろ足の盛り土が崩れ、「金華山号」は足を上げて三本足で式の終わるまで微動だしなかったそうです。
この時の「金華山号」はもちろん体高150cmを越えていたでしょう。この様に馬の需要は多かったことでしょうから、船で運ぶことも当然あったのでしょうが、ここで馬船と言うと馬や荷物を運んだ船とだけ記憶してしまうと間違えが起こります。漢字の国のややこしさでもあります。
別の意味の馬船とは外輪船の事でありまして、この外輪船も中国の発明ではないかとされているのですが、劉宋時代の将、王鎮悪の率いた水軍(418年)に関する「南史」の記述に「王鎮悪の軍勢は奇襲艦に乗って航行した。船を推進させる者はすべて船内に隠され、蛮人は渭水を遡航する無人の船を見て、北
方の人々はそのような船にかって出会ったことがなかったので、誰も心の底から恐怖を覚え、神の仕業だと思った。」とあります。
この時の船が外輪船でその動力に馬が使われたことから馬船とも呼んでいるのです。
この宝船63艘を中心に馬船、戦船、糧船等208艘からの船団に27411名が乗船して航海にでかけていますからこれは凄い。
7回に及ぶ遠征はアフリカのモガディシュを過ぎ、ザンジバルの手前のマリンディまで及んでいます。これはもう少しで喜望峰を回ると言う位置ですから、バスコ・ダ・ガマがこの地点にやってきたのは80年後ですけれど、もし、同じ時期でこの鄭和の艦隊に出会っていたら、ダ・ガマの艦隊は25mか30m
の船3隻ですから140mの宝船63隻の大艦隊にどう対処したでしょうか。
ダ・ガマもさらに航海を続けてこれらの大艦隊に対抗して貿易の莫大な利益を上げられるだろうとの夢は砕かれ失意の内に帰国したのではないでしょうか。
事実、ダ・ガマが喜望峰を回って立ち寄ったアフリカの諸国はお土産に持ってきたガラス玉などには驚きもしなかったそうです。
そうでしょう。見事な陶器や絹製品を贈られた経験がありその量も半端ではなかったでしょうから。
そんな所まで遠征しているのですから、ペルシャ湾のホルムズにも入りましたし、紅海のメッカの近くのジッダまでも入っているんです。
ダ・ガマの頃でさえビタミンCの不足から壊血病に悩まされており、それをライムによって補っていたから船乗り達をライム野郎と呼ぶことさえあった。
やがて、新大陸の発見から南米原産の唐辛子に多量のしかも乾燥させた状態でもビタミンCを含有することが分かり、これを用いることにより壊血病を減らすことが可能となった。
高々、百数十人程度のダ・ガマの艦隊でさえ、壊血病により死亡する乗組員の数が馬鹿にならなかったのでありますから、3万人近い鄭和の艦隊の乗組員の壊血病対策はどうしていたのかとても興味があります。
これからは私の推理ですが、鄭和と共に航海したイスラム人の通訳官の馬歓の記録にもこれと言った対策もないようだし、新鮮な肉を食べられたとの記載はあるようだから生きた豚や羊(イスラム教徒は豚を食べないから)などを積み込んでいたのは確かだろう。これと共に各種の瓜などの漬け物類はあった様だけれどそんなので十分なビタミンCが取れたのだろうか。
船に積んで何日も腐らずに十分なビタミンCの摂取出来る食品とは、となると中国でなければならない物があるのです。
古い時代から中国にはあったに違いない物それはモヤシです。豆腐や味噌を発明している中国ですからモヤシはあったに違いありません。
モヤシは豆の時にはほとんどないビタミンCが発芽すると猛烈に増えます。
豆と水さえあれば船倉で光が無くとも簡単に作れますから壊血病に良いかどうかは知らなくとも使っていたに違いありません。
鄭和の艦隊の乗組員に壊血病はなかったのでしょう、だから記録にもないことになります。
現在でも南極探検隊はモヤシ発生装置を持って行っているそうですこの話を女史にしますと、多分、モヤシはその頃からあったでしょう今でも中国のほとんどの地域で食べます。特に炒豆芽は上海のものが一番ですと言います。これはモヤシの頭と根を切り取って炒めるので水っぽくならない。
帰国してからだが、鄭和の船団がビタミンCの補給にモヤシを使っていたのではないかとの推理に裏付けをと探してみました。
まず、モヤシの材料である緑豆はインドが栽培起源地とされているし、日本にも縄文時代の終わり頃には栽培されていた様だ。
だから材料は古くからあった事になる。
はっきりモヤシと分かる新しい文献は、中国の艶書と言われる金瓶梅に四大碗として、焼羊頭、炙鴨、豆芽、玉子入ワンタン、山芋つき肉団子を挙げてある。
金瓶梅は小説の舞台は宋末(1100年頃)としているけれど書かれたのは1522年頃とされているから、永楽帝が福建に127隻の造船を命じているのが1403年だから120年からの違いがあるが、420年前の時代小説を書こうとする人物が50年から100年前にはっきりと作られたと分かっている
食物を登場させたりはしないだろう。探してみるとあるもので南宋時代の林洪の「山家清供」と元の著者名が不明な「居家必用事類全集」の飲食物についてまとめた平凡社の「中国の食膳」によると「造豆芽法」とあり「まめもやし」とルビが付いている。
つまりモヤシの作り方を書いているのだからモヤシを使った料理は当然宋の時代より前からあったことになる。
海のシルクロ-ドの始まりがここの港なのですねと水を向けると、女史は待ってましたとばかりに「海上絲周(いとへん)之路」は海上シロクロ-ドの中国語ですが、「海上絲磁之路」と同じ発音でチャイナロ-ドとでも言いましょうか、磁器の路は海からでないととても大量には運べなかったでしょうと言いま
す。
陸路を駱駝の背に大皿や花瓶などを乗せられる量は知れた物でしょう。
鄭和の大艦隊もイスラムの通商航路を中国の物にするための軍隊も同行していますからこの貿易による利益の大きさに国を挙げての取り組みだったのでしょう。
第4次遠征の時には鄭和がホルムズに滞在中ベンガル王が朝貢品を持って尋ねて来ます。
この朝貢品はなんと麒麟だったのです。中国人にとっては麒麟は伝説上の聖獣であり、最大の吉兆であります。この時は麟が贈られたとありますから雄の麒麟だったのでしょう。(麒が雄と言う説もあるし現在中国語では長頚鹿という)中国には獲麟(かくりん)と言う言葉があるそうです,麟は勿論麒麟のことです。この麒麟を捕獲すると言う様に字だけからは想像されるのですが,全然意味が違うのです,絶筆と言ったらおわかりでしょうか,筆を折るとも言って、文章などを書く事を止めることを言います。
私はまだ止めるつもりはありませんけど,最後には「これで獲麟する。」なんて書いて見たい言葉です。
なぜ獲麟が絶筆を意味するのかと言うと「春秋」と言う孔子様が編集した紀元前722年の頃の魯の国の歴史を書き表した本があります,中国の歴史を春秋,戦国時代と分けますがその春秋です,この書物の最後に「西に狩をして麟を獲たり」とあってそれで終わっているんです。
そこから来ているんですね,獲麟という言葉は字面だけでは分からない言葉もあることがわかりましたし,麒麟を獲たら本来は吉兆ですから良いことが起こっても良いのになぜか魯は滅びるのです。
このことを知ってかどうか分かりませんが、取り巻き達が吉兆だとして国を挙げての祝事にしようとするのに、永楽帝はそれを許しませんでした。
まあ、名君と言えましょう。

閲覧数2,364 カテゴリオメメの教養講座 コメント1 投稿日時2008/08/09 10:26
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コメント(1)
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  • 2008/08/15 14:32
    横から失礼します。

    残暑お見舞い申し上げます。
    まだまだ暑い日が続きますが健康には気をつけてくださいね。
    先日は訪問ありがとうございました。
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