この問いは「哲学」という学問にたいする問いである。 この問いに答えるのは非常に難しいが、実は簡単でもある。 まず表面上から簡単にいうと「哲学は諸学問の基礎付けの意味を持つ」ということ。 これは逆にいうと「諸学問はそれぞれの専門を通してその哲学的基盤にまで至らなければならない」ということでもある。 それは「認識の目」あるいは少なくとも「理性」を媒介とするものでなければならない。 では「哲学的基盤」とはそもそも何なのだ、ということになるが。 それは古代哲学から現代哲学にいたる「生の根源」の探求とも言える。 しかし実は「哲学という学問」は「学であって学ではない」 こういうとキツネにつままれたように思われるのだが、そうではない。 「哲学という学問」は、その定義から入ってゆくことはたいした意味を持たない。 なぜかというと、哲学以外の諸学にあっては、一応、研究の対象が限定されており、それに添って方法もはっきりしている。 ところが哲学にあっては「対象が定かでない」ことはもちろん、したがって「方法もまた一定していない」からである。 哲学という学問は長い歴史を有するものなのだが、その間、どれ一つとして主題を同じくするものは無い上に、方法を等しくするということも無かった。 言い換えれば、諸学にあっては定義が容易に可能であるとしても、哲学にあっては定説がなく、それを可能にする定義づけは容易ではないということである。 それはなぜか。 哲学というものは、最も根源的に「生に密着」しているものであるゆえに最も理解しがたいということと不可分であるからなのだ。 しかし哲学を表面上から定義付けることは困難であっても、その成立地盤からすると、そこに共通の性格を見出すことは必ずしも不可能ではない。 それはおそらく「根源」への探求であり「生の淵底」「存在の淵源」への探求であるのかもしれない。 というわけで。 「哲学」とはなんぞやと大上段から大袈裟に振りかぶる必要はないことが分かる。 要するに、あらゆる問題をめぐって自ら思索をこころみ、かつての独断と偏見から自己を目覚めさせる行為というわけだ。 これは誰にでも、いつでも、どこでもできる行為だ。 それは論理的思考の訓練になり、迷信や煽動、既成概念から自身を守ることにもなるだろう。 つまりは「善く生きるために最も重要な学問」といえるのだと思う。 |